文化を守るのに国籍取得は必要か 報道から感じた違和感

去年の今頃、筆者は大学2年生として新たなゼミに所属していた。政治思想史に関わる書籍を読み、同期や先生と多くのことを議論した。中でも印象深いのは「保守主義」の定義についてだ。無知な私はゼミで扱うまで「外国人は出ていけ」「日本の文化は素晴らしい」と語る人が保守主義者だと考えていた。しかし本を読み進むうちに、その考えは違うことに気づいた。

本質は「守るべきは守る。しかし、変えるべきものは変えていく」ことにあったのだ。現実離れした抽象的な理念を振りかざすのではなく、時代に合わせて改良していく。その考えに魅了された。

本日の朝日新聞朝刊ではNHKの連続テレビ小説に焦点を当て、「保守化」する朝ドラについて言及していた。

―平成には、女性の社会進出や性的少数者など多様性を重んじる社会への理解はそれなりに浸透した。だが一方で、「伝統的」な価値観や性別観を持ち出し、時計の針を巻き戻そうとする保守的な勢力も目立った。―

そこには以前の筆者のように「伝統的」な価値観のみで断じる「見せかけ」の保守主義があるように映った。

同じ思いを抱いた出来事が二日前にもあった。白鵬が日本国籍取得に向け手続きをすすめているというニュースに触れた時だ。

各社の報道を比較してみると内容にそれほど差はない。引退後も角界に残り、相撲道に生涯を捧げる決意を固めたこと。「親方」として年寄名跡を取得するには実績に加えて日本国籍が必要だということ。

朝日新聞では加えて以下のような記述もあった。

―日本相撲協会は北の湖前理事長(元横綱)時代から、外国国籍年寄誕生には一貫して否定的だ。理由は「相撲は日本の文化。それを継承する力士に指導する立場の親方が外国人では、正しく終えが出来ないから」-

違和感を覚えた。なぜどの記事も日本国籍を取得することが当然のように書いているのだろうと。相撲が日本の文化の一角を占めることに疑問を挟む余地はないが、指導する立場の親方が日本国籍でなければならないとは聞き捨てならない。

平成に入り、角界では外国出身力士が増加した。そこには相撲に憧れ、日本の国技を愛する姿を見ることが出来た。観客もまた国籍に関係なく応援した。

伝統は大事だ。しかし、そこに国籍は必要なのか。相撲という文化を守っていくには変わらなければならないこともあるのではないだろうか。

 

最後にモンゴルの主要紙「オドリ―ン・ソニン」紙に17日掲載された記事を紹介する。元小結旭鷲山のコメントだ。筆者の友人であるモンゴル人女性が翻訳してくれた。

―「日本国籍を取得するのは私たちにとって残念だが、将来親方を考えているならそこは規則というものがあるからしょうがない。旭天鵬とかもみんなそうしてきた。しかし白鵬の心は常にモンゴル人だから、国民も優しい目で見守って下さい。」―

 

果たして、そんな「規則」は必要なのだろうか。平成が終わり、新たな時代が来ると人々は沸き立っている。そんな時こそ、しっかりと考えたい。

 

参考記事:

4月19日朝日新聞朝刊35面「(考・カルチャー 平成→令和)保守化 歴史・伝統、浸るファンタジー」

4月18日朝日新聞「白鵬、相撲道の追求決意 父の理解、後押しか 日本国籍取得へ」

4月18日日本経済新聞「白鵬が国籍離脱を申請 日本国籍取得へ」

4月17日Odriin Sonin(Daily News) http://www.dailynews.mn/i/9485