人は「違い」を愛せるのだろうか。そんな文面を新聞で目にするとは思っていませんでした。例えば国籍、例えば言語。育った文化や家庭環境、受けた教育、年齢、性別、これまでに読んだ本、関係を持った人々、身体障害の有無etc…、どれをとっても自分と同じ人間というものは存在しないというのに、多様性を認めるとか、自分とは違うものを理解するとか、そんな議論にどれほどの価値があるのでしょう。
本日の朝日新聞朝刊。障害やLGBTなど、異なる個性を持った親子の関係と理解、お互い歩み寄る努力する姿を描いたアメリカドキュメンタリー映画「いろとりどりの親子」が日本でも公開された、という事柄をきっかけに、原作者の生い立ちや、「いろとりどりの親子」の監督と高校生が語り合ったことなどが記事に取り上げられていました。その詳細については、記事本文を読んでみてください。要旨としては、障害やLGBTなど、自分とは「違う」部分を持つ人間をどう肯定していけばよいか、ということについて話し合い、共生を目指す、というような内容でした。
さて、みなさんは自分と違う人間を、どこまで肯定できますか。訊き方を変えるとすると、他人の違う部分を、どこまで肯定できますか。次いでもう一つ。肯定するか、否定するかは決まりました。では、その結論が出たところで、どのような行動をとりますか。
先日、こんなことがありました。友人から、愚痴を聞いてほしいと連絡がありました。特に断る理由もないので、いいよと言って話を聞くことにしました。家族と喧嘩をした、妹が人としてどうかと思われる態度をとるから家族として直してやらなければならないので注意をするが、妹はそれすら無視をする、どうしたらいいか。私は端的に、話を聞く気が無いならこちらからはどうしようもない、と答えました。私だったら放っておく、と。ただ、彼女は私のその答えに対してたいそう怒りました。そういうことを言ってほしかったのではない、と。それに続いて彼女の希望をいくつか聞いてみましたが、彼女の意図は一向理解できません。しまいには、聞く相手を間違えた、と言われてしまったので、ではそれに見合う相手を探したらいいよ、と言うほかありませんでした。だからと言って彼女との縁が切れてしまった、というわけでもなさそうですが、なんだか悪いことをしたな、と思う一方で、ちょっと理解に苦しむな、という確固たる感情は残りました。おそらく向こうも同じような気持ちでしょう。
と、いうようなことは、一度や二度ではありません。こと友人の彼女に関しては、このようなことはしょっちゅうあります。そういう人なんだな、と思っています。こんなことが何度もある、ということは、このくらいの不理解では私も彼女も対人関係は築けるということ。最初の理屈に当てはめるならこのくらいの「違い」であれば肯定し、共生できるということになります。
今、障害やジェンダーに関わる問題など、特に目立った問題の無い人間関係の例を取り上げてみました。もしかしたら当事者は自分の環境に問題があると思っているかもしれませんが、実際がどうであれ、「違い」の肯定とその先の共生という道のりに違いは出ません。これは、障害やジェンダーに関わる問題があったとしても、変わりません。共生が肯定の先にあるとするなら、否定すれば共生はなく、何らかの形で人間関係が解消される、ということになります。問題は、そこに障害を持っていることや、ジェンダーに関わる事柄をさも重要なことであるように絡めて考えてしまうことだと私は思っています。ただ、言葉を返すようですけれども、個人を見るにあたってどの点を取って考えるかはその人にしか決められません。知的障害がある人とは無理とか、同性愛者なんて気持ち悪いと思っているのなら、その考え方を否定はしません。ですが、理解もしません。
どういう風に相手を見て、どんな相手と付き合い、どんな相手と関係を切るのか。血の繋がりをどれほど重いものと捉えるのか、あくまで他人と割り切るのか。そしてその選択をしたとき、その考え方を言葉で伝えたとき、それまで自分と「同じ」だと思っていた相手との食い違いを目の当たりにするでしょう。すべてを肯定しようとすることがいかに差別的であるか、そもそも差別が悪いことなのか、考えてみてください。
何を肯定して、何と共生するのか。ちょっと気にしてみてください。
参考記事:
11日付 朝日新聞朝刊(大阪13版) 25面(生活) 「向き合う家族 幸せのかたち」