「文化」「表現の自由」は魔法の免罪符?

京都は百万遍。観光客でにぎわう京都の中でも比較的落ち着いた雰囲気のなかにあるものといえばやはり京都大学です。鴨川をはさんで西側には同志社大学があり、一帯には多くの大学生が下宿しています。

その京大といえばやはり立て看板、俗にいう「タテカン」です。これまでキャンパスを囲む路上には学生が思い思いの工夫を凝らした看板が立ち並んでいました。しかし、京都市は昨年10月に「屋外広告物等に関する条例」に基づき京大に行政指導を行いました。これを受け、大学側は立て看板を撤去するよう警告文を添付しようとしましたが…。今回の措置に反発する学生が警告文をはがし、京大が再び貼ろうとするイタチごっこの様相を呈しています。

その様子はニュース番組で大々的に流されました。京大は何も支離滅裂なことを突然始めたわけでもなく、あくまでも市の条例に基づいて行動しただけですが、反対する側が大声を出して大学職員を罵り、半ば暴力的に警告文を奪う映像を見ると本当に情けなくなります。

この一件については、京大の対応にも疑問の声があるようです。長年続いた立て看板を撤去することにより「学生の文化を軽視している」「表現の自由への挑戦」などという批判があります。22日には、京大出身の弁護士138人が撤去の見直しを求める声明を発表し大学当局と市に送付しました。

ただ、ある行為が学生の文化として根付いていれば何をしても許されるのでしょうか。立て看板の存在が、例えば京都の景観を損ねていたり、公道に設置され他人の迷惑になっていたりしたら。果たして文化といえるのか、甚だ疑問です。

もう一つ、表現の自由を侵害していると主張するならば究極的には裁判で決着するしかありません。問題提起というのなら、本来の相手先は裁判所であるべきです。半ば暴力的に大学側に迫るのでなく。京都市は景観を守るために条例を作り、京大はそれに従っていただけですから。条例を粛々と守る他の人に対しても示しがつきません。

「文化」や「表現の自由」は社会において極めて重要なものですが、何かに反発するための免罪符ではありません。公的なルールがあり、健全な社会を支えるものであるのなら、それに従うのが基本原則です。もし不服があるなら適切な手段で人々に訴えかけ、最終的には裁判などで決着を図る。そうした当たり前のことがなぜ出来ないのでしょうか。今のままでは、ただ単に行政という「権力」に反発したいだけ、と見られても仕方ありません。

参考記事:

23日付 読売新聞31面(社会)「弁護士138人 タテカンで声明」