「自裁死」に納得できなかった理由

「評論家の西部邁さん(78)が多摩川で入水自殺」というニュースが飛び込んできたのは今年1月のことだった。真冬のつめたい川に入って命を終えるという激しさに、ショックを受けた。実際には知人男性2人による自殺幇助があったという事実は、先月明らかになったばかりだ。一連の報道では、西部さんは生前に著書などで「自裁死」を選ぶ可能性を示唆していたと伝えている。

「自殺」が追い詰められてやむなく死を選ぶというものだとすると、自ら冷静に死に時を決めて逝くのが「自裁」というものらしい。後者の方が精神状態が健全な印象を受けるが、そのときの内心について正確にはかれるものではない。西部さんの最期についてネットでさまざまな意見を探していると、大きな声で支持はできないが、そんな死のあり方があってもいいじゃない、という反応が少なくなかったのが意外だった。他人の人生をとやかく言うことはできないし、死に際についても同じだ。頭ではそれがわかっていても、心はもやもやとしていた。

支持広がる尊厳死

内閣府の平成29年版高齢社会白書を見ると、65歳以上で「延命のみを目的とした医療は行わず、自然にまかせてほしい」と回答した人は9割を超えている。いわゆる「尊厳死」を望む人はこんなに多いのだ。尊厳死は、第三者が薬物などを使って患者の死期を積極的に早める安楽死とはまったく異なる。ただ、国によって定義が違うところもある。

亡くなるタイミングだけでなく、場所も大きな意味を持つ。今日の新聞では、日本医療政策機構が20歳以上の男女1000人を対象にした調査で、「自宅で最期は可能」と考える人が2割にとどまったと伝えている。これに対して、先の白書では「自宅で最期を」と望む高齢者は半数以上だった。希望はあっても、その時の容態や家族の意思などによって実現できるかはわからないということだと思う。

祖父は病院で亡くなった。私たち家族とは別々に暮らしていて、いろいろな事情があり自宅介護は選べなかった。本当は、住み慣れた家で最期を迎えたかったのではないか。両親は祖父の気持ちを確認したのかもしれないが、私は知らないままだ。もしそうなら、叶えられなかったことに悔いが残る。訃報が届いたのは私が大学に入学して2日後だった。合格の報告のために病室を訪ねた時、眠っていることも多かった祖父がカッと目を開き、私の言葉を静かに聞いていたのを今も思い出す。

なぜ自裁死に納得できないか

尊厳死は、その人の生を尊重するものだし、人間として自然だ。一方で、自裁死や安楽死は積極的に死期を早めるものだ。その不自然さに、私は納得できないのではないか。しかしそこに至るまでには、私などには理解の及ばない事情があるのだろう。責めたいのではなく、ただただ、自分で死を早めるという選択が悲しい。

大切な人を亡くした人、生きがいもなく生きることがむしろ苦痛である人、残りの時間が長くない人に希望を提示するのは容易なことではない。そういう人がそばにいたとき、自分には何ができるのか、そっと寄り添うだけでいいのか、または何もするべきでないのか、最近ずっと考えている。

まだまだ浸透していない「アドバンス・ケア・プランニング」

ここまで他人の死の話をしてきたが、自分のことも考えている。まだ21歳だが、人生いつどう転ぶかはわからない。生きているうちにしか最期のことは考えられない。

終末期医療では、アドバンス・ケア・プランニングという過程がある。意思決定能力の低下に備えて、患者とその家族、主治医がケア全体の目標や具体的な治療・療養について話し合うというものだ。一度きりではなく、繰り返し行なって意思疎通をはかることが大切だとされている。人生の主役である個人の意思はとても大切だ。ただ、客観的な視点も交えながらその人にとって最善の方法を考えられる場がもっと広がってほしいし、その機会が多くの人にもたらされることを願う。

参考記事:
8日付 読売新聞朝刊(東京12版)35面(社会保障)「“自宅で最期は可能”考える人2割」