大川小・南三陸の震災遺構が伝える津波の脅威と命を守るために必要な選択

2011年3月11日、宮城県石巻市の大川小学校は高さ8.6メートルの大津波に襲われました。

石巻市震災遺構大川小学校(5月26日、筆者撮影)

 

この小学校には108人が在籍し、欠席や下校していた児童を除いた74名(死亡70名、行方不明4名)と校庭に出ていた教職員10名が犠牲となりました。付近の北上川の河口まで3.7キロメートルの場所にある小学校に津波が到達したのは地震発生から51分後の15時37分の事でした。

大津波警報が発令され、しばらく校庭での待機が続きましたが、その後、新北上大橋、県道などが交わる三角地帯への避難が始まりました。しかし、避難経路が行き止まりとなっており、移動を始めてわずか1分後に津波が到達しました。

震災前に作られていた地震(津波)発生時の危機管理マニュアルでは、第一次避難場所として「校庭等」、第二次避難場所として「近隣の空き地・公園等」になっていました。

文部科学省の事故検証報告書では、三角地帯への避難がこの悲劇の直接的な原因の一つと記載されています。学校の体育館裏には山があり、シイタケ栽培の体験学習が行われていたそうです。山への避難が遅れた理由として、避難場所の安全性の確保が難しいと判断されたためとも考えられています。

大川小学校の後ろに広がる山(5月26日、筆者撮影)

 

小学校の敷地内には震災が発生した当時の状態で校舎が保存されています。まず目に飛び込んできたものは弧を描くように建てられている校舎です。校舎内では津波によってむき出しになってしまった支柱や盛り上がった床が印象的でした。ねじれるように倒された渡り廊下、体育館に至ってはパンフレットを確認しなければ分からないほど跡形もなくなっていました。

ねじるように倒された渡り廊下(5月26日、筆者撮影)

 

県内には津波の襲来を最後まで伝えた南三陸町防災庁舎もあります。防災庁舎は海抜1.7メートル、海から約600メートルに位置する建物です。当時、約40名の職員がいましたが、そのうち30名が犠牲となりました。建物の骨組のみが残るその姿は津波の脅威を物語っています。現在では南三陸町復興祈念公園として整備され東日本大震災の教訓を後世に伝えています。

南三陸旧防災対策庁舎(5月26日、筆者撮影)

 

南三陸防災庁舎から歩いて10分ほどの所に震災伝承施設に登録されている高野会館があります。かつては結婚式場として利用された鉄筋コンクリート造りの4階建の建物です。外周を回ると錆びたエレベーター、機械室などが目に入りました。津波が押し寄せてきた際には屋上に避難した327名の命を救いました。

震災伝承施設に登録されている高野会館(5月26日、筆者撮影)

 

25年で東日本大震災から14年が経ちました。5月に震災遺構や被災してしまった地域に訪れ、日頃から高台などへの避難経路の確認や予測不能な震災から命を守るための選択、自然災害からの避難のあり方を考えさせられました。

 

参考文献:

2025年2月20日付 南三陸の旧防災対策庁舎を点灯へ 毎月一晩「ライトアップではない」

https://www.asahi.com/articles/AST2M3VPTT2MUNHB00CM.html

2025年6月17日付 朝日新聞デジタル 「自分の命を守れる人に」 新規採用教職員が旧大川小で防災教育研修

https://digital.asahi.com/articles/AST6J3R8DT6JUNHB001M.html

 

 

参考資料:

石巻市震災遺構大川小学校

https://www.ishinomakiikou.net/okawa/