少し残酷な言い方に聞こえるかもしれません。人間的な内面、それぞれが持つ弱さにまで踏み込むことで、その人物の魅力をさらに引き出せることがあると思います。各紙で紹介された遺族やその関係者の声に私は心を動かされました。
日本時間2日未明にバングラデシュの首都のダッカでのテロ事件。犠牲にあった日本人7人の死亡を2日の夜に菅官房長官は記者会見で発表しました。ところが、氏名や亡くなった時の状況については「家族の了解をいただいていないので、コメントは控えたい」と説明を避けました。政府は遺体が日本に到着したのを確認し5日に氏名を公表しました。
しかし、私もみなさんも政府の発表の前にそれらの情報の一部を知っていました。というのも翌日3日の朝刊では、かならずしも全員ではないですが被害に遭われた方の実名や職業などが掲載されていたからです。各社は独自の取材によって犠牲となった日本人の身元を割り出して報じていました。
今朝の読売新聞では「遺体帰国後」に公表するのが定着する可能性があると書かれていました。たしかに「遺族感情」は考慮しなければいけませんが、政府が情報を提供しないようになってはいけないと考えます。海外で事件に巻き込まれた犠牲者が誰なのかについて公表するときは基本的に実名。そして紙面やニュースに出すか出さないかといった判断は、報道各社の編集者の良心で決めればいいと思います。
もちろん、そのときには報道する側が自らを律することが求められます。このように考えるようになったきっかけがあります。ドキュメンタリーの制作会社でインターンをしていたときでした。
結果としての作品がどんなに意義のあることを伝えていたとしても、カメラという『武器』を持って他人のプライバシーに土足で踏み込んでいくことに変わりはないよ。忘れないでね。
番組制作するディレクターを補佐するアシスタントディレクター(AD)の方に言われた言葉です。時としてカメラが暴力を伴うことを自覚しなければならないのです。報ずべきことは報じても、守るべきプライバシーは守るという意識が必要です。そしてこの時に重要になってくるのが犠牲者やその関係者との信頼関係。この大前提があってこそ心に響く証言が得られます。
もう一度、記事を読み返しながら、もし私が記者なら取材先を守れるのか、心に寄り添い取材をできるのか、自問しました。ずっと向き合っていかなくてはいけない課題だと思います。
6日付 読売新聞 33面 13版(社会面)「犠牲者指名 公表は3日後」