震災から13年が経った福島 津波被害と原子力災害を現地で学ぶ

東日本大震災から13年が経ち、今春、震災後に生まれた子供たちが中学生になりました。筆者も地震発生当時は幼稚園に通っており、被害の深刻さは報道や本を通じて知りました。そこで、津波被害や原子力災害についてくわしく学びたいと思い立ち、現地に足を運びました。

福島県浪江町にある町立請戸小学校は津波に直撃されました。地震後は全員が近くの山に向かい、津波の犠牲者を出すことなく避難できたといいます。震災や津波の被害のあった校舎や備品はそのまま震災遺構として残され、見学できます。

震災遺構 浪江町立請戸小学校(3月23日、筆者撮影)

 

校舎に入る前の展示室には震災前の地域の生活、震災後の浪江町の状況が写真や文章で紹介されていました。続いて2階建ての校舎の1階に入ると津波の生々しい被害を知ることができます。3年生の教室が目に入り、更に進んで2年生、1年生の教室が続きます。教室には当時使われていたと思われるスコップなどが錆びた状態でロッカーの上に残されていました。他にも体育館の舞台には卒業証書授与式と書かれた垂れ幕が掲げられており3月にあった地震だということを再認識させられました。小学校の近くには津波で被害を受けた家屋が当時のまま残されています。

訪れたのが3月23日だったこともあり、多くの人が校舎を見学していました。小学校の周辺には福島県復興祈念公園が整備される計画といいます。南側には木々が生い茂っており、その隙間から福島第一原発の排気筒を望むことができます。

福島第一原発の排気筒(3月25日、筆者撮影)

 

請戸地区から南に向かうと、福島第一原発が位置する双葉町に入ります。同町は被災後、町民全員の避難が続いていました。2022年、優先的に除染を進める「特定復興再生拠点」に指定され、帰宅困難区域の一部で避難指示が解除されました。しかし、双葉町消防団第二分団の前に続く商店街は街灯が残されていただけです。13年にgoogleマップに投稿された画像と比べると多くのお店の解体が進んだことが確認できます。

第二分団にも当時使われていたと思われるヘルメットや消防服などが残されていました。海岸沿いを歩くと「ここから帰環困難区域につき立入禁止」と書かれた看板を見つけました。近くの建物は窓ガラスが割れ、建物を支える支柱がむき出しになっています。震災からの時の流れを実感しました。

双葉町消防団第二分団の前に続く通り(3月25日、筆者撮影)

双葉町に2020年に開館した原子力災害伝承館では、今は撤去された「原子力豊かな社会とまちづくり」と大きく書かれた看板のレプリカが展示されていました。被災前、この看板が町内に掲げられていたそうです。原子力を推進する標語を見て、原子力発電所が町に大きな影響を与えていたことを改めて実感しました。建物の中に入ると、3月11日に起きていたことが時系列順に描かれており、さらには防護服、汚染土などを入れるフレキシブルコンテナバッグ(フレコンバック)などが展示されています。フレコンバックを間近で見る機会はなく、その大きさに圧倒されました。他にも伝承館では語り部講話などもやっているそうです。

双葉駅周辺では再整備が進んでいましたが、駅から少し離れると、崩れかけた家などがそのまま残されています。実際に行って自分の目で見ないと分からないことがたくさんあることが分かります。昨年11月までに国が認定した6町村の特定復興再生拠点区域は、全て避難指示が解除されたことが報じられましたが、依然として双葉町は半分以上が帰環困難区域に指定され、多くの人が避難を続けています。被災地がどのように復興していくのか、これからも関心を持ち続けていきます。

 

参考記事:

朝日新聞デジタル「福島第一原発の排気筒を解体へ なお線量高く、難作業に」

https://digital.asahi.com/articles/ASM5805MFM57ULBJ00Y.html

朝日新聞デジタル「住民ゼロから1年後の双葉町 帰還者「新しい人とも未来つなぎたい」」

https://www.asahi.com/articles/ASR8Z664PR8ZOXIE03G.html