主権者とは、投票日に選挙に行く市民のことではない。
公的な問題について目を背けることのない市民、
強者の語りの陰に消された弱者の存在に配慮できる市民……“
社会科教育学などを専門とする、東京学芸大学教育学部の渡部竜也准教授は「主権者教育論」の前書きで市民のあるべき姿を列挙しています。謙虚でありつつも討論をいとわず、社会を多角的・多面的に考察できる市民こそが、「主権者」であり、民主的で平和的な社会を築くのだと。最後は以下のような文章で終わります。
……科学・中立・客観といった思考停止を招きやすい言葉に敏感な市民、
必要ならば行動をとる勇気のある市民、とまだまだあるが、こうした市民のことである。
誰一人取り残さない、居心地の良い社会にするためには、一人ひとりが社会の作り手として理想の社会を描いたり、社会的弱者の状況に思いを馳せたりすることが必要不可欠。まずは自分が立派な「主権者」にならなければ、と筆者が続けてきたのが、このあらたにすの活動でした。
書き始めて4年。数えて驚きましたが、この記事で102本目となります。広がる世界に比べて、圧倒的に小さな脳みそながらも、「正解」や自分の選びたい道を考え、文章にしてきました。締め切りに迫られながら、拙いなりにも自分の考えを論理的に整理して言語化することで、上に紹介したような主権者に少しずつでも近づけたのではないかと思っています。世界を知るほど、考えるほど、知識量が乏しく、視野も体力も限られていることを痛感しました。
以前あらたにすにも書いたように、「正しい」判断を下すためにどれだけ勉強が必要なのだろうと途方に暮れる、なんてこともありましたし、「やろうと思えばどんな問題も解決できる」「どんな社会問題も自分と繋がっている」というマインドのせいで、キャパオーバーで追い込まれて辛くなってしまう、なんてこともありました。しかし最近は自分や目の前の人の幸せにも目を向けるようになっています。
今のところの結論は「学ぶことに対して感じる楽しみを大事にしてあげれば、自分の理想とする主権者にも近づけるし、自分自身も幸せに生きられそう」です。最近は、気になる本をどんどん購入し、図書館にも足繁く通い、知的好奇心を満たして幸せになれる空間へと、自室を改造中です。
義務感から学問や社会問題に触れるのではなく、人間が編み出す社会の複雑さを興がり、原因を仮定し、解決に導く手段を考えることを楽しみたい。自分の思考力が育っていることへの喜びを、このまま大事にし続けたい。たとえコミュニティや政治思想、年齢のかけ離れている相手でも、一歩踏み込んで丁寧に対話することで、互いに学べること、分かり合えることを面白がりたい。自分や他の人の怒りの奥にある、悲しみや希望を大切にしたい。そんなふうに思っています。
今春から筆者は公立中学校の社会科教員として教壇に立つ予定です。義務教育の重要な役割の一つは、「公民を育てること」。一市民として、世界に参加することを面白がれる。居心地の良い社会、理想の社会を描き、創っていける。そう希望を持てる人を、少しでも増やせるよう活動していきたいと思います。
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本稿であらたにすスタッフを卒業します。お読みいただき、ありがとうございました。