棋王戦第1局は歴史を変える? 先手番角換わり腰掛け銀は終わってしまうのか?

一将棋ファンとして藤井聡太八冠の将棋はほとんど見てきたと自負しているが、「持将棋」は初めて見た。実際、藤井八冠にとって公式戦で初めてのことだった。誰にでもわかりやすく言えば「引き分け」になったということだ。もちろん、持将棋になったこと自体も驚きなのだが、それが藤井八冠得意の「先手番角換わり腰掛け銀」の対局で起きたことが、その驚きをさらに増大させた。もし今回の対戦相手である伊藤匠七段の作戦に穴がなければ、1つの戦法が幕を閉じることになるかもしれない。そこで将棋オタクの筆者が、勝手に今回の対局の何が凄かったのか解説していきたい。

<そもそも持将棋って?>

プロの公式戦では、たがいに入玉し、詰ませる見込みがなくなり、これ以上駒が取れなくなった時点で駒を数えます。玉を除いた駒(盤上・持ち駒とも)のうち、飛車と角を5点、その他の駒を1点とし、両者とも24点以上あれば引き分けに再試合となります。24点に満たなければ負けになります。

将棋連盟のホームページはこのように説明し、通称「24点法」と呼ばれている。その他には「27点法」というのもある。何が違うかというと、27点法は「決着をつけるための方法」ということだ。最初に双方が持っているのは、飛車と角で10点、金銀桂香が8点(それぞれ2枚ずつで)、歩が9点で27点ある。そのうえで、後手が27点以上を持ち、持将棋が成立すれば後手が勝ちというルールだ。3点の幅があるのは、「24点法」を採用するプロルールは指しなおして決着させるためである。相手の玉を詰ますのが本来の目的という考えが背景にある。一方の27点法は、アマの大会など指しなおしていると時間がかかりすぎる場合に用いられる。ただし、基本的に持将棋は双方が了承することが前提で、今回の棋王戦も伊藤七段が「持将棋ですかね」と提案し、藤井八冠が「はい」と応じたので成立した。

終局図の再現。双方の玉が3段目(本来は敵陣地)より内側にいて(これを入玉という)、捕まることがない形になっている。持ち駒はそれぞれ先手の藤井棋王が「角、金、銀、桂×2、香、歩×4」、後手の伊藤七段が「金、銀、桂、香車、歩×5」で先手が29点、後手が25点で持将棋が成立した。

 

<今回の対局の何が凄かったのか?>

・角換わり腰掛け銀とは何か?

まず前提として「角換わり腰掛け銀」とは何かという話をしないといけないのだが、これが簡単ではない。A級棋士である中村太地八段のYouTubeチャンネルで、「常識なしでもしっかり学ぶ角換わり理論」という有料級動画が公開されているので気になる方はそちらを詳しく見てほしい。ただ、この動画が2時間越えであることからも説明の難しさがうかがえる。ここで知ってほしいのは「角換わり腰掛け銀はプロの間で研究がとても進んでいる」「AI同士の対局では角換わりは先手がほぼ必勝レベル」「実際に藤井八冠の先手番角換わりでの勝率が異常(今年度先手番角換わりで負けたのは王座戦第1局のみ)」という3点だ。これらを総合すると、後手番で角換わりを受けて立つ場合はどういった作戦を用意するのかということに焦点が当たることになる。

・伊藤匠七段が用意した通称「持将棋定跡」

そこで伊藤七段が用意した作戦が「持将棋を目指す」というものだ。これを見た読者には「最初から引き分けを目指して戦うってこと?」と疑問に思った人がいるだろう。その通りだ。なぜそんなことが可能なのか。本来は不可能に近い神業のはずだが、今回それを成功させて見せた。

伊藤七段本人によると、最初から持将棋の構想ではなかったとのことだが、そう進む可能性の高い手順も研究の範囲内だったことは確かだと朝日新聞のインタビューで明かしている。また、今回持将棋が実際に成立したので話題になっているが、伊藤七段は持将棋を構想することは今回が初めてではない。昨年の竜王戦決勝トーナメントの丸山九段戦でも似たような構想で指し進み、打開を目指した丸山九段にカウンターを決めて伊藤七段が勝利している。

先ほども述べたが、角換わりはほぼ先手が有利なので、隙ができないように駒を微調整する手を繰り返す「待機策」が 後手番にとって有効な戦法の1つとされ、勝つことではなく千日手(同じ手を繰り返すと終わらなくなるので、同じ手をお互い4回指したら先後を入れ替えて指しなおす)を目指すか、優勢ではなくとも互角を保つことを最初から目指すというのは今までも考えられてきた。しかし今回初めて持将棋に進んだ。まだ正式に発表されていないが、持将棋に持ち込むと先手番が1つ多くなる可能性があり、千日手と違いタイトル戦では即日指しなおしにならないので、持ち時間もフルに持てるうえ、次局までの準備時間を稼げるなどメリットも多い。

 

今回の持将棋作戦には、「ずるい」や「観ていて面白くない」などプチ炎上のようになってしまった。ただ、本来引き分けを目指すなど常人の研究では不可能だし、それを実現するだけの血のにじむような努力が垣間見える。それをタイトル戦という大舞台で成功させたことは素直に称賛に値するはずだ。また、局後の大盤解説会に登場した藤井八冠は「伊藤七段の『てのひらのうえ』という将棋になってしまった」と相手の工夫を評価している。

そもそも双方が納得しないと持将棋は成立しないし、それが不満となれば先手番はその定跡にはまらないように避ける方法を考えるはずだ。持将棋の将棋が爆発的に増えることはおそらくない。今回の対局をつまらないと言っている人の不安は実現しないだろう。しかし、確実に「先手番角換わり腰掛け銀」に課題を突き付ける結果となった。今後、藤井八冠はどんな打開策を見せてくれるのだろうか。さらに進化した角換わりを披露してプロも将棋ファンたちも唸らしてくれることを期待したい。

 

参考記事:

7日付 朝日新聞デジタル 「藤井聡太棋王との持将棋、最初から狙った? 伊藤匠七段の意外な答え」

藤井聡太棋王との持将棋、最初から狙った? 伊藤匠七段の意外な答え:朝日新聞デジタル (asahi.com)

 

4日付 朝日新聞デジタル 「藤井聡太棋王「伊藤匠七段のてのひらの上」 AIは「優勢」→持将棋に」

藤井聡太棋王「伊藤七段のてのひらの上」 AIは「優勢」→持将棋に:朝日新聞デジタル (asahi.com)

 

2023年5月31日 朝日新聞デジタル 「AIで角換わりは終わった? 藤井聡太竜王「こちらの立場としては」」

AIで角換わりが終わった? 藤井聡太竜王「こちらの立場としては」:朝日新聞デジタル (asahi.com)

 

4日付 日経電子版 「藤井聡太八冠、公式戦初の引き分け 将棋の棋王戦第1局」

藤井聡太八冠、公式戦初の引き分け 将棋の棋王戦第1局 – 日本経済新聞 (nikkei.com)