「将棋棋士・谷合広紀」というエッセーを振り返って

楽しみにしていた日本経済新聞の連載エッセー「将棋棋士・谷合広紀」が6月28日で終わってしまった。1月から半年間の連載だった。

 

筆者の谷合四段は異色の経歴を持つ。プロ棋士、AIを研究する現役東大院生、AIエンジニアと二足ならぬ三足の草鞋で活躍するマルチプレイヤーだ。また、2022年の8月には吉本興業と文化人枠でマネジメント契約を結び話題になるなど、ただでさえ広い活動領域をさらに拡大した。

かつて将棋連盟会長も務めた故・米永邦雄永世棋聖が「兄たちは頭が悪いから東大に行った。私は頭が良いから将棋の棋士になった」と発言したのは有名な話だ。棋士になるのに兄弟以上に勉強した自負からだが、東大にも行きプロ棋士にもなった谷合四段を見たら、永世棋聖も腰を抜かしてしまうだろう。

あるインタビュー記事で、「飽きっぽいところもあるので、やりたいことが複数あるくらいがちょうどいいんですよね」と答えているが、どれをとってもそれだけで十分大変な仕事のはずである。天は二物も三物もあたえるのだなとつくづく感じる。

 

25回の連載の中で、「秒読み」、「振り飛車の現在地」「次の一手」の3つが特に好きだ。

「秒読み」とは将棋で持ち時間を使い切った後に、1手1分未満(1手30秒ということもまれにあるが)で指さなければならない状況のことをいう。時間をオーバーしたら、その時点で負けである。

大袈裟に聞こえるかもしれないが、常に間違うと死ぬ2択問題を解かされているようなものだと思って欲しい。受けるか攻めるか、与えられた時間はたったの1分。わからなくても指すしかない。棋戦によるが、長ければ丸2日考えてきた将棋を、その1手で台無しにしてしまうのかもしれない。そんな緊迫感の中で読まれる、「30秒…40秒…50秒…2、3」という秒読みの言葉。どんな死の宣告よりも怖い。そうした情景が本当にありありと描写されている。やはりアマの筆者が真似できない、それを生業にしているプロだからこその凄みがある。

そして「振り飛車」。将棋を知らない人のために、何なのかから話さなければならない。名前の通りなのだが、飛車という大駒を元ある位置で戦わせる「居飛車」と、違う筋に移動(将棋ではこれを振るという)させる「振り飛車」という2つの戦法が将棋界には存在する。ニュースになるようなトップ棋士の90%はAIの評価が高い居飛車を使う。そんな中でも振り飛車が秘める強さが、将棋を指す人にも指さない人にもわかりやすく書いてあるので、ぜひ1度読んでみて欲しい。

最終回が「次の一手」だった。優勢を拡大する手、拮抗していた局面から優勢に転ずるような手をいう。

「家で引きこもってパソコンと向き合っていることがほとんどの私にとって、エッセーのテーマに昇華できるようなネタとの出会いは少ないのだ。それでも日常を細かく観察していれば何か面白いことはあるはずだと信じて、エッセーのネタ探しを続ける生活がこの半年は続いていた」

半年間連載を読んでいて感じることはなかったが、これだけマルチに活躍する谷合四段でも書くということに悩んでいたんだと知ると、同じように文章を書く者としては親近感を覚え、嬉しくなった。

 

素直に半年間お疲れ様という気持ちと、またどこかで谷合四段の楽しいエッセーが読めますようにという願いと、そして谷合四段にとってだけでなく、自分にとっても将棋記事について色々なインスピレーションをもらったという意味で「次の一手」になったことへの感謝を込めて、今日の文章を終えたいと思う。

 

参考記事:

6月28日 日経電子版 「次の一手 将棋棋士・谷合広紀」

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD23A6F0T20C23A6000000/

 

3月22日 日経電子版 「振り飛車の現在地 将棋棋士・谷合広紀」

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD1731B0X10C23A3000000/

 

2月22日 日経電子版 「秒読み 将棋棋士・谷合広紀」

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD171ZG0X10C23A2000000/

 

2022年8月12日 朝日新聞デジタル 「吉本入りの将棋棋士、東大院では研究内容を変更 転機はユーチューブ」

https://www.asahi.com/sp/articles/ASQ8D4SBHQ8CUCVL01W.html?iref=sp_ss_date_article