生成AIの時代 読書感想文は必要か

 

読書感想文が苦手でした。感想をつらつらと何百字も書くことが、何だかとてつもなく大きな壁に思えました。口頭で自分の意見を発表することには何のハードルも感じなかったけれど、論ぜよと言われた途端、そこに面白さを見出せない。もし私が小学生の時にChatGPTを手にしていたら、宿題はもっと手につかなかったことでしょう。機械が綺麗な文章を作ってくれる時代に、こんなに苦しい思いをして自分で言葉を紡ぐ必要がどこにあるのかと。

昨日の朝刊だって言っていました。「多民社会」へ移行する日本では、やさしい日本語が必要なのだと。ほら、やっぱり、この資本主義社会で日本語の表現に磨きをかけることに、大した価値はないじゃないか。これからはグローバル化、IT化。ライターだってそのうち淘汰されるんだ。文章力を上げることって、そんなに必要なことなのだろうか。

「あらたにす」で3年間鍛えられ、つけた力はそんなに重要じゃなかったかも…なんて思っていた矢先、部屋の掃除をしていたら1年半前に書いた教育実習簿が出てきました。教育実習期間の3週間、毎日20行ずつ書いたものです。読んでみると、自分にしてはなかなかよく書けている。その日の学び。目の当たりにした光景。子どもたちの表情。対話の様子。指導教官の授業の素晴らしさ。自身の感動、悔しさ、成長、課題。当時の自分が見たもの、感じたことが、ありありと伝わってきました。

▲教育実習簿

教育にこれほどの熱量を持っていたのか。良い授業って、本当に綿密に計算されていたな。ベテランの先生は、こんなにたくさんの視点を持って子どもと接してるんだ。この時と比べて、自分は成長したな。若かったな。ここは変わってないな。むしろ後退してるな。今は講師として教壇に立つこともある私にとって、自分の書き記した記録には思いのほかたくさんの発見があり、全てを一気に読んでしまいました。

それだけの文章を書くのが苦でなかったのは、間違いなく、この欄で月に2回ずつ文章を書く練習をしてきたからだと思います。まだまだ、文章力が高いと胸を張ることはできませんが、自分にとっては大きな成長です。

アルバムと同じように、見たものや感動を記録する手段として。成長を実感し自己肯定感を高めるために。自らの気持ちを心に留めるのでなく、次に生かしていくために。意見を人に伝えるために。単に、表現したいことをどんぴしゃりと表現できた喜びを感じるために。やっぱり多様な表現で文章を書く力って、大事だし、素敵なのだと改めて痛感しました。自分の育った日本の母国語で文章を作るからこそ、日本の文化や歴史を背景とした、詳細な情景、自分の気持ちを表現することができます。言葉になったことで見えてくる美しさがあります。多様な表現をするからこそ育まれる豊かな感受性があると思います。

生成AIがある時代でも、いくら頑張ったところで自分の気持ちの詳細を誰かに代弁してもらうことはできません。たくさんの人々と一緒に暮らしていくために、自分の気持ちを分析するために、文章を紡ぐ力は必要不可欠。あと1年弱、自分の気持ちや見たものを大事に、まっすぐ向き合い、丁寧に拾い上げる鍛錬を大切に続けていきたいと、思いを新たにしました。

 

 

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