赤裸々な手紙、メッセージ… 広末涼子の不倫 報道は必要?

 

広末涼子さんの不倫報道。国民的女優、3人の子どもの母親が有名シェフとW不倫ということで、世間は騒いでいます。こうした報道のたびに、対象の芸能人はとことん社会的制裁を受けているわけですが、果たしてそれは正しいことなのでしょうか。彼らのプライベートな情報を追いかけ、分別なく世間に晒すことについて、違和感があります。

 

■芸能人のプライバシー権

今回の不倫報道では、彼女が不倫相手に向けて書いた手紙やメッセージが流出したことも大きな話題となりました。相手に対する熱い想いが詳細に綴られた手書きの文字は生々しく、人によってはより強くマイナスイメージを受けたことでしょう。二人についての詳細な事情を知らない世間は、切り取ったそれだけの情報を見て好き勝手にストーリーを作り上げます。一部の情報が一人歩きして憶測が広まることで、不倫をされた側である家族まで誹謗中傷の対象となることもあるのです。

不倫という行為そのものがどれだけ悪いことだとしても、大抵の人が見られるのを憚る恋仲の相手との私信を、本人の意に反して赤裸々に公開するのはプライバシーの侵害にあたります。報道の自由がプライバシーの権利より優位になるのは、その報道が公共の利益に値する時です。

例えば政治家など、その人の道徳観や倫理観、人柄が、有権者の判断基準になり得る公人であれば、自分達の未来を託すリーダーを選ぶわけですから、プライバシーの権利が劣後する可能性は高くなるでしょう。しかし芸能人の醜聞を暴き、晒したところで得られる公共の利益は、政治家に比べたらほとんどないようなものです。私たち有権者の未来に対して何の責任も負っていませんし、本来、人格者であることは求められていませんから。報道で得られるのは、そのメディアの視聴率や発行部数を伸ばし、世間の好奇心を満たすことくらいです。

 

■なぜずっと、袋叩きをよしとしてきたか

法的に守られる対象の一つと考えられるプライバシーの権利については、裁判で争われたこともありますが、こと芸能人の権利となると社会全体での議論となることはほとんどありません。ずっとそのままにされてきたのは、不倫報道のあった芸能人は到底、「この報道は公共の利益に値しません」なんて訴えることができないからでしょう。そんなことを主張すれば、好感度が命の芸能界への復帰は非常に困難になります。その背景には、不倫した人は滅多切りにしてもよしとする意識が社会を圧倒している現実があるからではないでしょうか。

不貞行為は刑法などで定める「犯罪」ではなく、民法上の「不法行為」に過ぎません。法律的に見ても、当事者でもない世間が腹を立てる筋合いはないのです。今までお金をかけて応援してきたわけではない人が急に「子どもがかわいそう」だの、「自分の親だったら無理」だの、勝手に当事者に同情し、勝手に叩くのは余計なお世話に他なりません。親が離婚や恋愛を繰り返している人の中でも、意外とあっけらかんとして、「うちのママ魔性の女なんだよね」なんて言っている人もいます。彼らの事情は、彼らにしかわからないはずです。断罪する権利は世間にはないのです。

 

■メディアのあるべき姿とは

「悪いことをした人は袋叩きで良い」という感覚は非常に危ういのではないでしょうか。情報化社会の今、誰でも簡単に他人の情報を全世界に晒すことができます。罪を犯したとしても、法で未来が守られるはずの少年。まだ有罪判決が確定していない被告。法に基づいて裁かれるべき人々が、本名、住所、顔写真を特定され、先にネット上で社会的制裁を加えられてしまうことも日常茶飯事になってきました。

犯罪でも、そうでないとしても、真相がはっきりしていないことを勝手に断定して広め、何の権限もない者が他人の未来を奪うこれらの行為は非常に暴力的です。だからこそ、情報を扱ってきたプロであるマスコミや芸能関係者は、情報の持つ暴力性に危機感をもち、先陣を切って発信者としてのあるべき姿を示していくべきではないかと思います。

 

関連記事:

読売新聞オンライン 妻・広末涼子が不倫…キャンドル・ジュン氏が会見で告白「離婚してほしい、と言われた」