仙台荒浜地区を訪ねて―残された土地に求められる復興の形は

4月半ばの朝6時。7時間の夜行バスの旅を終えて、杜の都仙台に降り立ちました。急用というわけではなく、3日ほど前にふと東京から出て、行ったことのない所に行ってみたくなっただけの弾丸旅です。

(宮城県公式HP)宮城県地域マップ

ただ仙台に来たからには、震災遺構は訪れたい。あまりにも急な計画で、気仙沼や石巻に向かうことはできませんでしたが、仙台市内にある震災遺構、荒浜小学校をたずねることができました。仙台駅から電車とバスを乗り継ぎ、乗換えが上手くいけば最短で約30分。ノープラン旅でしたが、スムーズに到着しました。

(筆者撮影)荒浜の様子。左に見えるのが荒浜小学校校舎

ビルやアーケード街で賑わう仙台駅周辺とは打って変わり、バスを降りると、ただただまっさらな土地が広がっています。その中にぽつんと建つのが荒浜小学校。校舎があるということは、震災前は家が立ち並んでいたんだろうなぁ。そう考えながら、周囲を歩きました。

現在、荒浜地区は津波の危険が著しいとして、条例で「危険災害区域」に指定され、新たに住宅を建設することはできません。つまり、これは被災した街を、元のように再建することができなくなったということです。防災集団移転促進事業により、荒浜住民の住まいは津波の危険性が低い内陸部に移転しました。

復興庁の資料には、「被災地域の住まいの再建、復興まちづくり、交通インフラ等の整備は概ね完了し、復興の『総仕上げ』の段階」にあると書かれています。また、「災害に強いまちづくり宮城モデルの構築」を推進している宮城県の資料においても、ほとんどの災害復旧事業は完成、もしくは完成間近の状態となっているようです。

避難者は当初の47万人から3.1万人に減少し、仮設住宅の入居者も今では1000人にまで減ったと言います。また、津波の危険性が低い高台や内陸部への移転も進み、場所は変わってしまいましたが、日常生活を取り戻していると思われます。そういった「人々の暮らし」という意味では、復興を遂げているように映ります。ですが、荒浜を訪ねて感じたのは、「残された土地の復興は進んでいるのか」という疑問です。

震災から12年。周辺はいまだほとんど空き地。危険災害区域として住めなくなった土地の、活用の難しさを感じました。震災の被害を受け、住人が消えると「遺構」としての役割しか持たなくなってしまうのでしょうか。

それでも、荒浜には震災遺構のほかに、フルーツ狩りができる体験型観光農園「JRフルーツパーク仙台あらはま」や、せんだい農業園芸センターがありました。筆者は荒浜から帰る際に、フルーツパークに足を運びましたが、お昼時のレストランは観光客で賑わっていました。

人が去った後に残る地域の復興は大きな課題です。人の暮らしとは別に、土地の活用、さらには活気をどう取り戻すかという懸案が残っていると感じました。

(筆者撮影)JRフルーツパーク仙台あらはまで食べたプリンアラモード。うしろ姿はマスコットのフルパちゃん。

(筆者撮影)荒浜の歴史を伝える石碑より「東日本大震災前後の荒浜の風景」