「かわいそう」の一言で終わらせないで コロナ禍の高校三年間

「コロナ世代はかわいそう」

身近な大人の口やメディアの報道から、この言葉がよく発せられます。多くの制約を受けながらも工夫して楽しんだ日々を「かわいそう」の一言で終わらせてほしくない。思い込みでただネガティブに捉えてほしくない。コロナ禍の高校三年間を終えて、私は思います。

2020年の春、新型コロナウイルス感染症の感染拡大により世界の状況が一変した中、私は高校に入学しました。学園生活は中学生のときに夢見たものと大きく異なっていて、一番初めの授業は前後左右に人がいない状況で受けました。行事は相次いで中止や変更になり、初めのうちは友達とおしゃべりをしながら昼食をとることもできませんでした。

「コロナさえなければ」と恨んだり、通常の高校生活を送れた世代を羨んだりしたことは何度もあります。それでもこの三年間は、ただ「かわいそう」なものではない。コロナに翻弄されながらも、コロナと共に青春時代を過ごした私達だけの「レア」なものなのです。

例えば、学外者の入場を制限した、コロナ以前と異なる文化祭。ステージ発表の当日に急な欠席者が出ても困らないように、事前に映像作品を完成させて文化祭当日に各教室や体育館で上映しました。はやりの曲を真似たミュージックビデオ風動画の作成は、まだ会話にぎこちなさの残るクラスメイトと仲良くなるきっかけにもなりました。

修学旅行はそれまでと異なるスケジュールで進められました。私たちの学年は観光や自由行動が無くなり、全日程スキーという過酷なものに。「雪山に軟禁される」と文句を言いながらも、修学旅行の期間中みっちりと練習したおかげでスキーを上達させることができ、最終日はもっとスキーをしたいと名残を惜しんだほどです。

始めから終わりまでコロナとともに高校生活を送った私は、この三年間は「かわいそう」なんかじゃないと自信を持って言えます。とはいえ、それは以前の高校生活を知らないからなのかもしれません。先輩方のように、突然これまでの日常を送ることができなくなるのは辛いものだったでしょう。

一つ上の学年は、修学旅行に行くことができませんでした。二つ上は、高校での最後の行事となる体育祭が無くなりました。同じようにコロナ禍の高校生活を送ったと言っても、先輩方は「コロナさえなければ」という思いが私以上に強かったかもしれません。

このように学年によって、否定的な思いの強さや三年間を振り返っての感想は、大きく変わると思います。コロナによって世代間のギャップが深まったといえるのではないでしょうか。また、親戚である千葉在住の同級生も、修学旅行は蔓延防止措置の期間とかぶり、中止になったそうです。コロナへの思いは学年間同様、地域間でも大きな差があります。

だからこそ、コロナ禍の青春時代を経験した若者を「コロナ世代」とまとめ、全員が同じような意見を持っていると思わないでほしい。将来の若者から同じようなことを言われないため、私は決めつけない大人になりたいです。

 

参考記事

6日付 読売新聞朝刊(12版)13面(特別面)「『コロナ後』変わる意識」