引っ越しをしまくる漱石と、もうしたくない私

大学の授業は終わり、卒業式のみを残した3月中旬。「春は出会いと別れの季節」と言う耳慣れた言葉を噛みしめながら、九州での思い出に浸っていた筆者には最後の大仕事が残っていました。「引っ越し」です。片付けができない、物が捨てられない性格を見かねて母が手伝いに来てくれることになっていましたが、事前準備はしなければなりません。地域のスーパーや知り合いから段ボールを集め、これから使うもの、要らないものに分けて入れました。一つ一つに思い出が詰まっており、1年生の時にもらった授業の履修登録冊子や頭を悩ました授業のノート、レポートが見つかるとぺらぺらとめくることがしばしば。気づけば1時間ほど経っていることもありました。これも片付けの醍醐味でしょうか。

洋服や本は4年間でかなり増え、段ボールがいくつあっても足りません。「もしかしたら今後も使うかもしれない」となかなか捨てられないので、友人に相談してみると、「『1つ増えたら2つ捨てる』を意識したら本当に必要なものが見えてくるよ」と物を大事にするうえでの新たな価値観を教えてくれました。残念ながら今回はその助言が効果を発揮しませんでした。まだ使えるものは古着屋や古本屋、メルカリなどを通じて必要としてくれる人に譲るほうが、捨てることに罪悪感のある筆者には向いていたのかもしれません。

捨てられなかった結果、大量の荷物を運ぶことになった(3月20日筆者撮影)

結局、母が来るまでに段ボールに詰めることができたのは本と服だけで、その他はお手上げ状態でした。引っ越し業者が荷物を取りに来るまでの2日間、最後の方はため息しか出なかった母を前に、寝る間も惜しんで荷造りをし続けたことは大反省です。このように春というゆっくりしたい季節に、せわしなく荷造りに追われ、もう二度と引っ越しはしたくないと思った筆者ですが、幾度も転居を繰り返した「引っ越しのプロ」が熊本県にはいました。

その名は夏目漱石。代表作の『吾輩は猫である』や『三四郎』は、一度は読んでいることでしょう。彼は1896年に旧制第五高等学校の教師として熊本に赴任してきました。住んでいる間の旅行経験から『草枕』を書くなど、文豪の作品に影響を与えた地のようです。引っ越し準備の真っ最中でしたが、研究室のフィールド調査で熊本市を訪れ、漱石の旧邸に出会いました。

漱石が熊本にいたのは約4年間でしたが、その間に6回も引っ越しをしていたことには驚かずにはいられません。最初の家は光琳寺町で熊本城の近くでした。東京から来た夫人が、すぐ前が墓場であることなどを嫌がり、3か月で転居します。2番目の家は合羽町。狭いわりに家賃が高いとの理由でこちらも早々に逃げ出します。家賃は現在でいう13~15万円だったようです。筆者が訪れたのは3番目の大江の家です。ここは漱石の同僚である落合東郭に留守宅を借りて住んでいたようで、漱石も妻も家賃の安さなど気に入る点が多かったのですが、家主が帰ってきたため退居が決定。こんな具合で転々と熊本市内を移り住んでいたのです。

現在は移築され、見学が可能(3月16日筆者撮影)

漱石の引っ越し理由を見てみると、どうやら好き好んで転居を繰り返していたわけではなさそうです。やむを得ない理由とはいえ、どのような気持ちだったのでしょうか。

筆者の場合は大学卒業と就職のための引っ越しです。こぢんまりとした部屋は落ち着け、一人暮らしには何一つ不便がありませんでした。漱石が6度も家を変えた4年間という歳月を一つの部屋で過ごしただけあり、やはり名残惜しさがありました。漱石と異なるのは、かなり前から引っ越しが決まっていたということです。心も荷物もコツコツと準備すればいいのですが、なかなか難しいものです。

引っ越しといえば、かなり苦労した荷物詰めと、愛着のある部屋との別れが付き物です。今後の人生で何度経験するかは分かりませんが、場所の好みや些細な理由で面倒な引っ越しは繰り返したくありません。先人の知恵を借りながら慎重に家を選び、万が一の引っ越しの際にも楽に移れるよう、物を増やさないよう心がけることを誓った大学4年の春でした。