宗教の話題への忌避感 教育現場から?

 

世界平和統一家庭連合(旧統一教会)など宗教団体の信者を親にもつ「宗教2世」への虐待をめぐり、厚生労働省は児童相談所や市町村に向けた初めての対応指針を公表しました。脅して宗教活動を強制するのは虐待にあたることなどを明示し、子どもの安全確保のため躊躇なく一時保護などの対応を取るよう求めました。

苦しんできた当事者は「第一歩」と歓迎しています。これで、問題に対処しない理由に宗教を挙げることもできなくなります。しかし、指針に掲げる例は暴力や暴言で信仰を迫るなど極端なものが多く、強制を示す事実が少ない場合はこれからも難しい対応を迫られるのでは、との指摘もあります。

厚労省担当者は、「当事者からは、『宗教』となると、児相や警察の対応が消極的だったと聞いた」と明かしました。私は、行政が及び腰だったのは、宗教問題に触れることへの過度な忌避感にも原因があるのではないかと考えています。

 

■「信仰が違って当たり前」の心地よさ

私自身も以前は、宗教の話題は避けがちでした。役所が尻込みするのもわかります。どう触れてよいのかわからないのです。敬虔な信者であったり、自分とは全く違う宗教だったりすると、なんだか「別世界の人」である気がしてしまい、相手との間に一線を引いてしまっていました。

小学校の時のことです。同じクラスで、美術の時間に皆が取り組んでいる風神雷神の絵を描かず、違う絵を描いている子がいました。宗教的な理由だというのはそのうちなんとなくわかりました。「どうして描いちゃいけないんだろう」「なぜこの絵だけダメなんだろう」。疑問はたくさんあったけれど、先生の言動などから、正面から聞くのは憚られる空気を幼いながら感じ取っていました。

この夏、私はオーストラリア、フィリピン、マレーシアに渡り、異国の人々とたくさんお話しました。タイ、アルゼンチン出身の友人に「What religion do you believe in? (何の宗教を信仰してるの)」と好きな食べ物と同じようなテンションで聞かれ、そこから話題が広がったことは、強く印象に残っています。マレーシアではお土産を探していると、ムスリムの女性にヒジャブの試着を薦められ「可愛い!チャイニーズムスリムみたい!」と褒められました。

「異文化で育った人」という前提があるからこそ話題にするのをいとわない、という面もあるのでしょうが、「信仰が違って当たり前」「それぞれに大事にしたいことがある」「その違いを楽しむ」という感覚は、とても心地の良いものでした。こういった環境でなら、かつてクラスメイトだった彼にも、「どうして同じ絵を描かないの?」と聞き、他宗教を信仰する人への理解も深めることもできたかもしれない、とも思いました。(もちろん、本人が言いたいかどうかにも十分配慮しなければいけませんが)

 

■義務教育で、どう教えるか

もっと自然に、義務教育の段階で宗教への理解を深め、もう少しだけオープンに話題にできないのでしょうか。最新の中学校社会科の教科書を見てみると、歴史、地理、公民どの教科書でも宗教について取り上げています。しかし自分自身はがっつり教わった記憶はなく、知り合いの社会科教員に聞いても「知識も浅いし、センシティブな分野だから、深く教えるのを避けてしまう」と頭を悩ませていました。

確かに、教室の子どもたちは、誰がどんな信条を持っているかわかりません。公の教育機関では、特定の宗教を広めたり、逆に排除したりすることがあってもいけません。とはいえ、「カルト」と呼ばれるものとそうでないものの違いは何なのか、ニュースによく出たIS(イスラム国)についてはどう説明するのか、「何のために宗教を信じるのですか」と聞かれたら何と答えるのか。宗教についてある程度の見識を持たないとなかなか取り扱いづらいでしょう。

しかしここはぜひ踏み込んでほしいところ。歴史も地理も、宗教をわかってこそ深く理解できる部分がたくさんあります。「科学だけでは説明できないもの」といった意味で宗教を広義に捉え、わかりやすい身近な例を挙げて「信仰心」というものを客観的に理解する。そこから試みてはいかがでしょう。「亡くなった人がいつも心にいて守ってくれている気がする」とか、「何かを踏んだとき、それがおにぎりだと分かると後ろめたい思いに駆られる」とか「何となくバチが当たりそうなこと」とか。「〇〇教」と称しているものも、その延長線上にあるといえるかもしれません。

そういうことを考えるとともに、信教の自由についても理解を深めると良いのではないでしょうか。ある宗教を信仰する、信仰しない自由。信仰の対象を自分で選択し変更する自由。信仰を告白しない自由。告白を強制されない自由。個人の内心の自由は絶対に侵されてはならないということ。学校はあくまで中立的であり、何か特定の宗教をおすすめしたいわけでも排除したいわけでもないということ。

 

■宗教を知るハードルを下げると

自分自身や日本人の宗教観を客観的に捉えることと、宗教を排除しないことは両立できます。権利や宗教について向き合おうとする子どもや大人が増えることで、本人の意にそぐわず信仰を強制されている宗教2世の問題に、的確に対応できるようになるかもしれません。偏見や誤解の対象となっている宗教を信仰していた人が、生きやすくなることもあるでしょう。

世界の多くの国々は、宗教を基盤として文明や社会が成り立っています。日本も例外ではありません。最近は、グローバル社会を読み解く鍵として、ビジネスマン向けに教養として宗教を学ぶ本が売られています。子どもの頃から触れていれば、宗教が原因でおこっている世界の問題もぐっと身近に感じられるのではないでしょうか。

ぜひ、教育現場でも宗教についてタブー視しないでほしい。構え過ぎず、一歩踏み込んで信仰について知ってほしい。そう思います。

 

 

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