日本は平和?

新聞社のニュースサイトで「入管」を検索すると、たくさんの記事が並びます。 福岡県の日本語学校で鎖や南京錠で拘束されたベトナム人留学生茨城県の入管施設で亡くなったカメルーン人の男性入管職員から強い力で頭をマットに押さえられ続けたブラジル国籍の男性愛知県の入管施設で命を落としたスリランカの女性。 外国人だって私たち日本人と同じ人です。 にもかかわらず、その人権を踏みにじるような暴力行為が起きているという報道が後を絶ちません。 私たちの日常生活のなかで外国人への暴力は決してないと言い切ることはできるのでしょうか。

ウィシュマさん(名古屋の入管施設で亡くなったスリランカの女性)の遺影とともに会見に臨んだ妹2人=ウィシュマさん遺族側、検審申し立て 名古屋入管元局長ら不起訴:朝日新聞デジタル (asahi.com)より引用

 

私が小学生だったときに起きたことをここに挙げたいと思います。 私には日本とニュージーランドのミックスルーツの親戚がいます。年も近く、一緒に出かけて遊ぶことも度々ありました。 ある日、二人で近所の公園で遊んでいたときのことです。 彼女の容姿がいわゆる「日本人」とは同じではないと思ったのでしょう。そこにいた同級生の一人が私たちに向かって言いました。「わあ、外国人だ。帰れ、帰れ」と。

抑えていた感情があふれたのでしょうか。 家に帰ると、彼女の母親がいる部屋で大粒の涙をこぼしていました。 当時の私は何もできずに、部屋の外で茫然としていました。 その状況も彼女の心情も十分に理解できていなかったのです。 ただ、このことをはっきりと記憶しているのは、彼女が深く傷つけられたその瞬間を目の当たりにしたからなのです。

 

外国人がいると日本の治安が悪くなると嘆く人。 外国人のなまった日本語を目の前で面白おかしくまねる人。 電車で外国人の隣には座らない人。 実際に目にしたり、他の人から聞いたりした日本人のことです。 このような外国人差別やゼノフォビア(外国人嫌悪)を目にするたびに、小学生のときに見た光景がフラッシュバックします。 今でも当時のことを思い出すと、胸がぎゅっと苦しくなります。 当事者の彼女は、どれほど辛かったことでしょう。 辛いという一言で私が済ますことすらも、軽薄なのでは、とはばかられるほどです。

 

マイクロアグレッション(小さな攻撃性)という言葉を耳にしたことはありますか。 日常生活にひそむ小さな偏見や差別のことです。 意図的でなくとも自身の言動が他者を深く傷つけてしまうことがあるのです。 受け手や周囲がそこに悪意を感じたかどうかが、判断における重要な指針となります。 マイクロアグレッションは、受け手に対してだけでなく、それに触れてネガティブな気持ちを抱いたすべての人に対する暴力だと私は思います。 小学生のときの経験は、今なお私の心に影を落としています。

マイクロアグレッションという言葉があります。 日常生活にひそむちょっとした偏見と説明されますが、発言者(加害側)に悪意があったかどうかではなく、受け手や周囲がそこに悪意を感じたか、という解釈のほうに重点が置かれる点が特徴です。

 

日本は治安も良く、平和な国だとよく言われます。 しかし、ある人にとっては暴力的な空間となることもあるのです。 外国人への暴力が入管施設や日本語学校、技能実習生を受け入れる企業といった特定の場所だけで起きているわけではありません。 暴力は私たちの身近に潜んでいるのです。 外国人に限ったことではありません。 あらゆる人が「小さな」攻撃に遭う危険性があるのです。 だからこそ、誰かが暴力を受けているときは、自分なりの方法で抗議したいと思います。 でなければ、その暴力はいつか自分の身に降りかかるかもしれません。

ナチスが最初共産党を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから

そして、彼らが私を攻撃したとき、私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった

マルティン・ニーメラー (出典:彼らが最初共産主義者を攻撃したとき – Wikipedia)

 

参考記事:

24日付 日本経済新聞朝刊(愛知12版) 2面(総合・政治) 社説