外見から、何がわかりますか?

突然ですが、今は「自分らしさ」を表現できる時代だと思いますか。

とくにネットメディアでは自分らしさが大切な時代だと言われていますが、メディアや識者がいうような麗しい『自分らしさ』を尊重する社会になっているのでしょうか。

筆者の実感は、「違うかな」です。外見と中身を過度に結び付けて評価を下すことを許す社会の空気が人々の「らしさ」を阻んではいないでしょうか。

大学時代を振り返ると、一方的に性的な目で見られ、誘いを断ったら服装などの外見について理不尽な非難を浴びせられた経験があります。鮮やかな色の服は性に開放的な人だと捉えられる、とも言われました。周囲でも、一方的に友人の男性達に家に押しかけられ、性的な関係を迫られて拒絶したところ「じゃあそんな服装をするな」と怒られ、恐怖を感じたといった話を耳にしました。

恐ろしいことに、男性の知人が、「派手な服を着てるのにホテルに行くのを拒絶してきた女を引きずりこんだんだよね」と男女が混ざっている集まりで笑って話しだしたこともありました。自身はその場で問い詰めました。「その人は拒絶をしているのではないか」といったのに対し、「服装がそういうことが好きそうな女だと思った」「じゃあそんな服を着るなと思う」といった反論がかえってきました。泣いていたという話を聞き、拒絶し、泣くという明確な意思表示に目をつぶり外見から受けた印象を盾にとる姿に強い疑問を抱きました。それ以降、その人には会っていませんが、友人の間やサークル活動などの身近な世界にも、こういった風潮は潜んでいるのだと思います。

パブリックな空間で活動するKPOPアイドルへのコメント欄でも同じく、過度な外見からの評価を感じます。他メンバーと同じような衣装にもかかわらず、曲線的な体型をしている特定のメンバーにのみ性的なコメントが届いています。アダルトな内容をまとめるインターネットアカウントにもパフォーマンス動画が転載されています。Instagramの私服がノースリーブであるだけでセクシャルなことを好んでいる女だ、というコメントがSNS上であがります。こうした光景ははっきり言って異常です。そういったコメントが積み重なり、ダンスパフォーマンスや衣装表現を変えるべきという方向に向かえば、当事者の活動は制限されてしまいます。

また、近年問題となっている陸上競技の盗撮問題。自身が応援している選手が以前、インターネット上での性的な誹謗中傷をやめるようにInstagramでお願いをしていました。寄せられた中傷では、「こんな格好をする競技をやる時点で、性的な目で見られるのを楽しんでいる」という暴論まで目にしました。

「そんな服をするな」「嫌なら競技をやるな」。責任転嫁をするように怒られた女性は、自己否定感に悩まされます。自身も髪型を男性のようにし、肌が一切見えない服を着るべきかと模索した時期もありました。ですが、一方的な外見の評価を気にし、好きなスタイルを手放すことはおかしい。幼い頃から大好きな本、音楽と同じくらい自分を支えているのは好きな服装です。

小田急線殺傷事件では、「勝ち組そうに見える女性を殺したかった」と犯人が言っていました。外見から勝手に内面を想像され、殺害される危険があるなんて考えられません。こういった事件は以前から海外でも問題となっています。インターネット上では「ステイシー(性的であり、人生を奔放に楽しんでいる女性)を殺した」と人生を楽しんでいるように<見える>女性の殺害を称賛するコミュニティさえ存在します。性的な観点から、被害を被っても仕方ないと断定された女性達は本当に「勝ち組女性」で性にふしだらなのですか。実際に彼女達の話を聞いたのでしょうか。

一定の自衛が必要だという意見もあるかもしれません。しかし服の印象は個人の体型に依るところも大きいのです。「性的に見せないために」と曲線的な体型のアイドルは他メンバーの衣装よりも制限されるのでしょうか。過剰に男性的な服装をすることで自衛するというのは、弥縫策に過ぎないと思います。

好きなことを周りの反応を気にすることなく表現できる、胸を張れる。こういった社会の空気があって初めて「その人らしさ」を尊重しあえる環境になると思います。

今のところ、ただ不快に感じたことを言葉にし、文字に綴ることしかできません。しかし、こういった問題を取り上げ続けることが、性別に関係なく、特定の集団や人物への偏見や差別を防ぐことに繋がると信じています。

【参考記事】

性差別に「はあ?」と一言 強くない、華やかでない人も 朝日新聞デジタル