私は、大学でオンラインによるフィールドワークの講義を受けています。実際に足を運ぶことはできないものの、現地の人々から話を聞き、さまざまな情報を得ます。いま、インドにあるチベット人の亡命社会やチベット仏教について学んでいます。チベット僧の方からチベット仏教の基礎を教わったり、現地の様子を肌に感じたりしています。そのなかで強く認識させられたのは、何と論理的な教義なのか、僧たちがいかに論理的思考力を磨いているのかということです。それまで、宗教と聞くと、非科学的で何だかあやしいものというイメージを抱いていました。しかし、実際にチベット仏教に触れてみて、まったく異なる印象を抱くようになりました。
チベット仏教では、批判的な考察が重視されます。そして、四依(依りどころ)とすべきものとして、以下のことが挙げられています。
文字ではなく、意味に頼りなさい
常識ではなく、真の知恵に頼りなさい
教えを説く人ではなく、教えそのものに頼りなさい
暫定的な意味の経ではなく、確定的な意味の経に頼りなさい
僧たちは、これに従って日々修行しています。権威ある経典がそのように書いているから、高僧がそのように言ったからと、教義を説明することは決して許されません。毎晩、仲間同士で問答したり、批判的な視点をもって学んだりしています。師の教えに疑問を抱いたり、それが論理的に正しいとは言えないと考えたりすると、相手がどれほど位の高い僧であってもひるむことなくそれを相手にぶつけ、熱心に議論します。
一般的に正しいとされていること、権威ある人が考えることが必ずしも信頼できるとは限らないと示す四依。なんでも鵜呑みにするのではなく、常に批判的に論理的に考える僧たちの姿勢。これを少しでも知れば、宗教そのものを何だかあやしくて怖いものだとは感じないでしょう。
先月8日、安倍晋三元首相が銃撃される痛ましい事件が起きました。山上徹也容疑者は、母親が破産するきっかけとなった宗教団体を恨んでおり、その団体と安倍氏につながりがあると考え、犯行に及んだのです。この事件を機に、この宗教団体の信者や家族をめぐる問題、政治と宗教団体との関係性がより活発に議論されるようになりました。このような報道に日々触れるなかで、宗教なんてけしからん、あるいは怖いと感じる人もきっといるでしょう。
私たちは、自身が知らないものや経験したことのないものに偏見を抱いてしまいがちです。また、物事の一側面、一部分を垣間見ただけで、すべてがそうなのだと決めつけてしまうこともあります。だからこそ、他者を理解しようとする姿勢、自分が知らないことを知ろうとする態度が求められるのです。
もちろん、完璧に理解できないことも考え違いすることもあるでしょう。しかし、それはまったく問題ではありません。よく知ろうともしないで、それを遠ざけようとしたり、思い込みにとらわれたりすることの方が問題です。宗教そのものは決して怖いものではありません。宗教を通じて、新たなものの見方を得ると同時に、自分の思考を深く、豊かなものにできるはずです。宗教とは何なのか。学ぶことがなぜ大切なのか。今一度考えてみませんか。
参考記事:
26日付 世界平和統一家庭連合(旧統一教会)と政治家に接点 → 政治と宗教の関係について知っておこう|一色清の「このニュースって何?」|朝日新聞EduA (asahi.com)