まちある記

ふと見慣れていたはずの景色に違和感を覚え、あったはずの店や建物がなくなっていることに気が付く。そんな経験はないだろうか。

「何か」はあった。でも、何があっただろうか。どんな店舗か思い出せないのは、興味がなかったからだろう。生まれ育った町を隅々まで眺めながら歩くと、ずっとここにいたはずなのに、懐かしさすら覚える。

もっと私を育ててくれた町が知りたいと思う。名古屋市東郊の住宅街を散歩し、地域の方にコロナ禍や物価高についてのお話を伺ってみた。

夏らしいひまわりの花

焼き菓子店にて

まずは、焼き菓子店で働く40代の女性にお話を聞いた。友達の家へ行く時は、ここで必ず手土産を買うと決めている。店内飲食よりテークアウトが多いため、コロナ禍でも働き方に大きな影響はなかったと話してくださり、どこかほっとした気持ちになった。

焼き菓子となると、原材料に物価高の影響が大きく出そうだ。問題ないのかと尋ねると、粉ものは大変ですね、と店員さんはうなずいた。「まだなんとか耐えてはいますが、今後バターの価格まで高騰すると、もうどうしようもないです」と表情を曇らせる。

レジ横には、持ち帰り袋の持参を呼びかける張り紙がある。包装のコストを減らすことで、菓子自体の値段を上げないためだ。価格を据え置く理由はなんだろう、とシンプルな疑問が思い浮かんだ。

「チェーン店などの大きな店舗では、10円上げるだけで大きな利益が出るかもしれませんね。でも、小さなお店で同じことをしても、100個売れても1000円しか変わらない。売り上げにあまり効果がない代わりに『値上げした』という悪い印象だけが目立ってしまうのです」

慣れている値段だと計算が楽だからというのもあるんですけどね、と店員さんは茶目っ気たっぷりに締めくくる。普段お世話になっているお店の裏側を少しだけ覗けて、さらに応援したくなった。

可愛らしい手作りのクッキー

自転車販売店にて

自転車販売店で働く男性は、突然の訪問をにこやかに出迎えてくださった。ここで生まれ育ったのだと私が話すと、そういえば職場体験で小学生が1年に1回来ますよ、とどこか遠くを見て笑う。「写してるんだか、みんな同じような感想文を書いてくるんですよ」

こちらのお店は、コロナ禍でも客層に大きな変化はなかった一方で、自転車の部品を仕入れられなくなったことに苦労したそうだ。

「世界トップシェアの自転車部品メーカーが、品薄になってしまったんです。チェーンやギア、ブレーキといった部品は消耗品なのに、仕入れたくても数カ月先。修理ができないばかりか、部品が足りなければ新品の自転車も売れません。やっと最近落ち着いてきたところですね」

大阪府堺市に本社を置く「SHIMANO」が、世界で約8割のシェア率を誇るらしい。日本の企業が世界で活躍している事実にはわくわくするが、自転車業界への思わぬ余波に心が痛む。

自転車が好きだからこそ、こだわっているという店員さん。別れ際は素敵な笑顔と共に見送ってくださった。「熱中症には気を付けてね!」

ブティック

「コロナになって、いいことはなかったです」。婦人服店を営む男性は語る。オープンから約25年、私が生まれる前に開業していたブティックだ。初めての訪問のため、私が恐る恐る扉を開けると、驚きながらも温かく席を勧めてくださった。

60歳以上の常連のお客さんが多いそうで「通りすがりに入ってくる若いお客さんはいないですよ」と店主さんは微笑む。今はどこも大変でしょうけど、とことわりながらも、コロナ禍で外出の機会が減ってしまった影響が大きいと教えてくれた。

「健康に気を遣っていらっしゃる方が多いので、コロナ禍になると外出されなくなります。旅行もしない、友人にも会わないとなると、新しい服は必要なくなってしまう。習慣で服を買ってくださっていたお客さんが減りましたね」

興味深かったのは、3月末に起きた中国・上海市の都市封鎖(ロックダウン)による影響。通常3~4月に仕入れる服が、6~7月に入荷することになったそうだ。店主さんによれば、日本のアパレル業界で、日本製は3~10%のみ。有名大手ブランドでも中国製品がほとんどを占める中で、輸入の遅れは大きい。特に実店舗を持たないメーカーは、6~7月の入荷では夏物処分でバーゲン価格が求められるため、定価で小売店に売ることができなかったという。

「楽しい話題ができるといいんですけどね」と寂しそうに語った店主さん。何か力になれたらという漠然とした思いを胸に、お店を後にした。

終わりに

日曜日の午後に、町を歩いた。日差しのせいだけではない熱が体の内にある。

私の育った町。人が生きる町。知らない世界があり、誰かに届けたい声がある。自分の足でもっと知りたいことがある。

今この瞬間を見過ごしたくない、もう忘れたくないと思った一日だった。

 

参考記事:

30日付 日本経済新聞朝刊(13版)3面「行動制限 自治体ごとに」