神社での映えは、不謹慎?寺社の性質を考える

突然ですが、皆さんにとってお気に入りの寺院や神社はありますか。思い浮かべた場所は、なぜ好きですか?

筆者は小学六年生の頃から御朱印を集めており、寺社を巡ることに思い入れがあります。自国の文化に感動させられるのみならず、新たな試みを行う神社に参拝することで、新たな色を刻む伝統を噛みしめることもあります。

ですが一方で、現代に迎合しようと取り組む寺院や神社への批判が取り上げられたニュースも目にします。寺社仏閣のツーリズム化に苦言を持つ方の意見はどのようなものでしょうか。宗教観光学を論じる書評内では、「聖性を帯びる場が観光地化することで、消費行動の対象とされて消費され尽くされることが懸念される」という旨が述べられています。神社、寺院が聖性を帯びた場所であるという認識から、観光化することで寺社が消費され、蝕まれる感覚を持つということになります。

筆者としては、こう言った意見に対して思ったことは、寺社・神社は果たして「神聖性を帯びている」という側面だけで成り立っているのか?ということです。

正直な話をするならば筆者は「イベント性」「エンタメ性」に心をくすぐられて寺社仏閣に足を運ぶことも少なくないです。例えば、静岡県熱海市の来宮神社は写真からもわかるように、入り口の鳥居で写真が撮れる仕組みになっており、ハート型の落ち葉アートもあります。

2019年筆者撮影 鳥居の真ん中に写真撮影用の台がある

2019年筆者撮影 ハート型の落ち葉アートがつくられている

また、筆者がお気に入りの東京都四ツ谷の陽運寺。こちらはカフェテラスや釣り具を使ったおみくじなどが並ぶユニークな場所です。

2022年筆者撮影 陽運寺にはカフェテラスがある 他にも様々な工夫が凝らされており、いつ訪れても楽しい

こういった場は素直に「体験」が楽しいので足を運びたくなります。カフェスペースやフォトスポットの設置は人を集めることに繋がり、商業面のプラスもあるように思えます。また、昔から寺院や神社の前に参道が発達したように、周辺経済の活性化は寺社が担う一つの役割にも思います。

実際、江戸時代には、庶民の間で現在の神奈川県に位置する「大山」に参る「大山詣り」が流行しています。江戸から気軽に行ける行楽地であることと信仰心の両方の理由から江戸の人は大山を目指しています。浮世絵にも描かれる程有名な大山詣りは、一種の旅行感覚で楽しまれたため、周辺の経済の活性化にもなりました。

伊勢原市公式サイトより引用 「相模国大隅郡大山寺雨降神社真景」

そして何より、寺院、神社は地域に開かれた場でもあるということです。七五三、結婚式など様々な行事もおこなっており、正月には皆が列をつくります。ライフスタイルを振り返ると、社会と密接に関わり、地域社会に溶け込んだ存在です。

神社、寺院というのは「聖性」を帯びた場ではありますが、社会の中に深い繋がりを持ちながら存在している場でもあるのです。移り行く社会の世相を反映し、変わっていこうとする寺社というのは、ある意味で自然な行いなのかもしれません。

写真などを楽しんだのちは、参拝の場に書かれた厳格な「神社からのお願い」を見ながら皆真剣に祈っています。その光景を見ながら思うことは、寺社仏閣の観光地化の取り組みは決して「消費行動の促進」ではなく、聖性の分かち合いだと強く思います。

なるべく社会との境界を曖昧にし、誰もが気軽に尋ねられるように工夫を凝らす姿は、寺社仏閣の「地域、社会との繋がりの側面」「周辺経済活性の役割」など聖性以外の寺社の性格が表れただけにも思えないでしょうか。

【参考記事】読売新聞デジタル 5月30日付 お参りでマイリが貯まる 信仰のポイント化へ批判 「覚悟の上」

【参考文献】伊勢原市公式サイト

山中弘編 宗教とツーリズム―聖なるものの変容と持続 門田岳久