アルバイトを終えたある日のこと。更衣室で着替えていると、先輩二人に「脚細いね」と声をかけられました。予期しなかったことに、言葉が出ませんでした。その後駅に向かうため、エスカレーターに乗りました。降りようとすると、酔った男性が突然私の両肩を背後からつかみました。思わず振りほどいて逃げました。
バイト先の先輩も酔った男性もきっと軽い気持ちからこのような言動をしたのしょう。しかし、ストレスで肌荒れしている脚がまさか誰かに見られているとも、背後から自分の身体をロックされるとも思っていませんでした。このたった10分ばかりの一連の出来事で、自分の身体と他者との境界は踏みにじられてしまいました。私はそこに言葉にならない恐怖を感じたのです。
米連邦最高裁は24日、人工妊娠中絶を憲法で保障された権利として認めない判決を言い渡しました。このことを知ったとき、私はあの日と同じ恐怖を覚えました。自分の身体のことは自分自身で決めるという当然の権利が否定され、政府や法律といった権力、権威によって自分の身体と他者との境界が侵されるのだと理解したからです。73年の「ロー対ウェード」事件の判決で最高裁は、国家から個人の行動が制約を受けないプライバシー権に、中絶を選ぶかどうかの選択が含まれると判断し、中絶する権利を認めました。しかし、今回49年ぶりにこの判例が覆されたのです。しかも、最高裁判事9人のうち女性はたったの3人だったのです。
これはアメリカだけの問題ではありません。南米のブラジルでも、性的暴行を受けて妊娠した女児(11)が中絶を希望したにもかかわらず、判事が認めないという事例がありました。日本は、国連の女性差別撤廃委員会から中絶に配偶者の同意を必要とする規定を廃止するよう勧告を受けています。しかし、見直しの議論は進んでいません。
このような人間の尊厳を踏みにじるようなことが許されてしまってよいのでしょうか。中絶することに対して、どんな意見、立場を持とうが個人の自由です。しかし、中絶をするかどうかの最終的な選択権は当事者に委ねられるべきではないでしょうか。このからだは「私」のもので、このからだで生きていくのも「私」だからです。
中絶を選ぶ権利と聞いて、「自分には関係ない」と思った人もいるかもしれません。しかし、この権利が保障されていないということは、自分の身体のことや生き方を自分の意思で選択できない、決められないということを意味します。自分のことを自分自身で決める権利は生まれてきたすべての人に当然認められるべきです。もし誰かがその権利を奪われているのなら、私たちも一緒になって声を上げましょう。それはきっと私たち自身を守ることにもつながります。
参考記事:
28日付 朝日新聞(愛知14版) 4面(総合4)
27日付 朝日新聞(愛知13版) 6面(オピニオン)
26日付 朝日新聞(愛知14版) 1面