大阪地裁は20日の判決で、同性婚を認めていない現行法を「合憲」としました。同性婚を認めないのは「法の下の平等」を保障した憲法14条に違反する、との判断から「違憲」とした昨年3月の札幌地裁判決とは反対の結果となりました。
同性愛者は望み通りに婚姻できないという重大な影響が生じている。契約や遺言など別の制度で同等の効果を得られても、異性婚で得られる法的効果には及ばず、公認の利益も満たされない——
大阪地裁は、上記のように同性愛者の不利益に言及しながらも、次のような理由で現行の婚姻制度が違憲とは言い切れないとしました。
一方で、人類には男女が共同生活して子孫を残してきた歴史・伝統があり、自然で基礎的な集団単位として識別・公示する機能を持たせて法的保護を与える婚姻制度には合理性がある。公認の利益を実現するためには類似の承認制度を作ることも可能で、本件諸規定はそれを妨げていない。
私は、この意見に賛成できません。
まず、歴史・伝統が、人権よりも大事だとは到底思えません。仮に大事だったとしても、そもそも、「男女が共同生活して子孫を残してきた」ことが「歴史・伝統」となったのは、それ以外認められてこなかったからです。同性愛者が差別されてはならないとする一方で、今まで表に見えてきただけ、公に表明できただけの「男女のカップル」が多いことを「伝統」とするのは、ダブルスタンダードではないでしょうか。
「男女が共同生活する家族」を「自然で基礎的な集団単位」とするのも、性的少数者に対する差別的な表現に思えます。性的少数者は、「自然な集団単位」として認められるべきでないのでしょうか? 判決中の「カップルとして公に認知される利益も重要な婚姻の利益であり、同性愛者にも認められる」とする判断とも矛盾があります。男女のカップルのみに法的保護を与える婚姻制度に「合理性がある」とはとても言えません。
白鷗大の水野紀子教授は「差別や偏見は許されないが、同性婚の容認は別の視点から考える必要がある。同性同士のもとで、生殖補助医療で生まれた子どもが将来、育ての親と遺伝的に繋がりがないとすれば、自らのルーツに苦悩を抱えかねず、子供への影響を考えないといけない」と主張しています。しかしこれは婚姻制度とは別に考えるべき問題です。男女の婚姻制度のみが認められていても生殖補助医療によってルーツがわからない子どもは生まれますし、そもそも原告が求めていた婚姻の利益は「自由に子どもを育てられる」点だけではありません。子どもへの影響の問題を解決するのは、「同性婚を認めないこと」ではないはずです。
また、「公認の利益を実現するためには類似の承認制度を作る」ことこそ、合理的でないように思います。新たに承認制度を設けてまで、同性婚は認めない根拠は果たしてどこにあるのでしょうか。
今回、裁判長は「どのような制度が望ましいかは伝統や国民感情を含めた社会状況を見据えて民主的過程で決められるべきもの。近年の調査では法的保護を認めるべきだという回答が増え、多数決原理による制度構築に期待できないわけではない」としましたが、この判断にも強い疑問を抱きます。
性的少数者の権利が侵害されているのは、今です。いくら議論を待っても国の制度が変わらなかったから、司法に訴えたのです。行政、国会が蔑ろにした可能性のある人権がそのままにされて良いのかどうかは、もっともっと司法が踏み込んで判断するべきです。少数者の意見が反映されにくい現状があるのにも関わらず、人権侵害問題の解決を「多数決原理による制度構築」に期待するのはあまりに及び腰ではないでしょうか。
裁判官は国民によって選ばれてはいません。裁判所は民主主義における直接の基盤を持ちませんから、議会の判断を無効にすることと同義の「違憲」判断には十分な慎重さが求められます。それでも、司法には「国民の救済」という重要な責務があります。判断を国会に任せてばかりでは、三権分立の意義は薄くなる一方です。11月末にある同性婚訴訟の東京判決では、彼らの権利が認められることを願います。
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