有松絞りで有名なまち、有松を知ってますか。江戸時代の面影を残している名古屋の観光地の一つです。
ここは、江戸初期、江戸と京都を結んだ東海道の池鯉鮒宿と鳴海宿の間に尾張藩によって開かれました。東海道を往来する旅人をもてなす茶屋集落としての役割を果たすだけでなく、藩の保護を受けながら土産となる絞り染めを生産することで、発展していきました。明治維新以降、東海道の往来者が大きく減ったことなどから、有松絞りは衰退に向かいましたが、新たな意匠や製法の開発などによって再興を果たし、明治後期から昭和初期にかけて最も栄えました。そして今なお、東海道沿いには立派な商家の景観をとどめています。
現在では、地域の人の尽力により、名古屋市「町並み保存地区」、国「重要伝統的建造物群保存地区」、文化庁「日本遺産」に指定されています。また、「国際芸術祭あいち2022」の会場にも選ばれています。今後もさらに多くの人が訪れることでしょう。
それでは、どのようにして有松の魅力が広く知れ渡るようになったのでしょうか。
実は、朝日新聞名古屋本社に勤めていた記者の石川忠臣氏が1969年に訪れたことが、大きな転機となったのです。石川氏は、有松のまちなみに感銘を受け、有松町保存会準備会を発足させ、古くからの佇まいを残すべきだと強く訴え続けました。有松町保存準備会の誕生は、当時の朝日新聞社会面のトップを飾り、今ある有松まちづくりの会の前身となると同時に、有松のまちなみの美しさを広めました。
有松のもつ魅力を認識し、先陣を切って動き出したのが、まちの人ではなく、言ってみれば全くの部外者である一人の新聞記者だったことに、とても驚かされました。内にいると日常に溶け込んでしまったり、当たり前と思い込んでしまったりして、どうしても見えにくいもの、意識できないものが出てきてしまいます。そうしたものも、今いる場所から一歩離れてみたり、様々なひとと関わったりすることで、はっと気づくことができるのではないか、と私は思います。
有松では、石川氏がまちにいる人に働きかけたことを皮切りに、地元の人々が主体的に動き始めました。そして今では、魅力の一つであるまちなみを残すために尽力し、魅力を育み続けています。魅力であれ、課題であれ、それに気づくことは、言わばまちを育むことの種まきです。目には見えないけれど、いつか芽が出て、花が咲き、実を結びます。
私はこれまで自分の地元を紹介するときに「何もない」と言いがちでした。しかし、ただ自分が気づいていなかっただけで、チャーミングなところはたくさんあります。大学に通うようになって、そのことを日々実感しています。一歩離れてみると、見えてくるものがあるものです。6月4・5日に開催される有松絞りまつりにもぜひ足を運びたいと思います。
参考資料:
名古屋市:有松伝統的建造物群保存地区及び有松町並み保存地区(暮らしの情報) (city.nagoya.jp)
有松まちづくりの会 会報「有松」重伝建選定記念特別号 arimatsu1701tokubetsu.pdf (arimatsunomachi.com)
有松まちづくりの会 会報「有松」No.51 kaihou51.pdf (arimatsunomachi.com)