何かとよく耳にする「表現の自由」ですが、いったい何を目指すための自由なのでしょうか。
1か月ほど前になります。「表現の不自由展 東京2022」が4月2日から5日まで開かれました。本来は、昨年6月に開催を予定していましたが、抗議が相次いだことで辞退する会場が続き、10か月遅れとなりました。
「表現の不自由展」そのものは2015年に初めて開催されていますが、妨害が顕在化したのは国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」からです。脅迫電話にテロ予告、「トリエンナーレ」「抗議」の言葉を含むTwitter投稿は開催わずか2日で14000件以上にのぼりました。安全な運営ができないと判断した主催者は3日で中止としました。
この表現の不自由展を巡って死傷者は出ていません。しかし35年前の「赤報隊」による朝日新聞阪神支局襲撃事件、7年前のイスラーム過激派によるシャルリ―・エブド襲撃事件など、表現の自由、および言論の自由を巡って犠牲者が出る痛ましい事件が国の内外で起きています。
「私はあなたの意見には反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」
フランスの啓蒙思想家ヴォルテールの言葉です。皆それぞれ違う意見を持っています。賛成の人もいれば反対の人もいます。当然反対の人にも「反対だ」と表明する自由があります。ただし、それは暴力を伴うものを除いてです。ひとたび暴力を認めてしまうと、誰一人として同じ意見を持つ人はいないので、究極的には最後の一人になるまで争いが終わることはなくなってしまいます。
「芸術の可能性は限りなく大きく、言論の広がりは社会を豊かなものにします。しかしいま、論争のあるものや『政治的』なものを遠ざけ、目に触れないようにすることが横行しています。そんな息苦しい空気は願い下げです。天皇と戦争、植民地支配、日本軍『慰安婦』問題、靖国神社、国家批判、憲法、原発……これらをタブーとせず語り合える社会を、私たちの手で実現しましょう。」
表現の不自由展の公式ホームページに書かれた文章の一部です。政治的なもの、宗教的なもの、過激なもの、これらは確かにお茶の間にはそぐわないでしょう。それでも少しでもより良い社会の実現を目指すなら、避けては通れない問題ばかりです。また制限といえば柔らかな印象を与えますが、検閲との線引きは難しく、非常に微妙です。
大切なことは対話です。その作品に問題があるならどこに問題があるのか、反対ならどうして反対なのか。そうした多様な意見交流の場を作るのが、まさに表現の自由の目指すべきところなのではないでしょうか。何かと理由をつけて様々なことを制限、禁止してしまえば、対話の可能性を根こそぎ奪ってしまうことになります。
「自由とは、より良くなるための機会のことだ」
『ペスト』の作者で知られるフランスの作家カミュの言葉で締めくくりたいと思います。
参考記事
5日付 朝日新聞(神奈川13版)15面 「表現の自由 法と社会で守る」
表現の不自由展 展覧会情報 「ついに開幕!表現の不自由展 東京2022」
展覧会情報 – 表現の不自由展 (fujiyuten.com)
NHK 「表現の不自由展・その後」 中止の波紋
「表現の不自由展・その後」 中止の波紋 – NHK クローズアップ現代 全記録