「暴力という最終的な形が良くなかったというのには勿論同意なんだけど、彼の行動によって気持ち的に救われた人も少なからずいたんだろうなとは思う」
「『腕力』を用いた暴力は許されないが、『知力』を用いた暴力は許されてしまう、といったある種の社会的合意は、果たして本当に公正公平なのかは今一度考えないといけないのかなとも思う」
前回のあらたにすでは、アカデミー賞授賞式で俳優のウィル・スミスさんがコメディアンのクリス・ロックさんを平手打ちしたことについて、「暴力は絶対に許されてはならない」と主張しました。上記は、筆者のSNSアカウントで自分の記事を伝えた際に、友人から寄せられた意見の一部です。
これらを受けて改めて考えたのは、「言葉の暴力」に対して私たちがとるべき姿勢と、「どちらが悪いか」という基準で議論することの危険性でした。
アカデミー賞の運営側、アメリカの俳優組合(SAG-AFTRA)、米ウォール・ストリートジャーナル紙、著名人をはじめとし、現地ではほとんどがスミスさんに対する厳しい意見を表明しています。前回のあらたにすに対して寄せられたどの意見も、この「暴力を容認してはならない」という主張には賛成でしたし、私もこの立場を堅持します。しかしその上での結論は「『言葉の暴力』に対しても、当事者を中心にもっと向き合っていかなければならないのでは」というものでした。
「インパクトとしては平手打ちの方が大きかったけれど、傷ついた人の範囲・数で言うと言葉の暴力の方が負の影響力が大きいとも思う。アカデミー賞協会としてももっとそこにスポットを当てるべきでは」
一人が受けた身体的な痛みやそれによる表現の萎縮の効果と、傷ついた人の数とは天秤にかけられませんし、全体の利益を優先すべきだ、というわけでもありません。ただそれだけ、著名人が公の場で発する言葉には影響力が伴っているし、人を傷つけるネタやそれによって生まれた笑いに対して、視聴者は批判の声を大きく上げなければならないということです。スミスさんの平手打ちによってかすんでしまったロックさんの言動も正しく非難されるべきですし、「容姿いじり」に対してもまっすぐに向き合い、笑いの在り方について問い続けなければならないでしょう。
また今回の事件を受け、日本のテレビ番組や海外メディア、ネット上でも「スミスさんかロックさん、どちらが悪いか」という議題が盛り上がりを見せました。自分の考えを固める入り口としては悪くない問いかけかもしれませんし、わかりやすそうにも見えます。しかし、今後につなげていくためには、「人」を丸ごと支持したり非難したりするのではなく、「一つの言動」「意見」のそれぞれについて、あるべき姿を検討しなければなりません。メディアは今後も、各方面の意見を丁寧に整理する努力が必要でしょう。
一つの記事を発端に、様々な意見に触れることができました。筆者は、これからもこうした対話の機会を大切にしていきたいと考えています。記事を読んで考えたこと、疑問に思ったことなど、お寄せください。
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