人は自らの力について、案外気付いていないものだ、哲学者や政治家の名言ではありません。今日の記事を読んだ筆者の率直な感想です。今回の当事者はまさか自分の発言がここまで問題になるとは思っていなかったことでしょう。この発言がなされた原因は何だったのでしょうか、またこの発言の影響はどれほどのものなのでしょうか。ということで、今日は茨城の教育委員の発言から、公に関わる者の発言の責任を考えていきたいと思います。
18日に開かれた茨城県総合教育会議で、「妊娠初期に障害の有無がわかるようにできないのか。」や「茨城県では減らしていける方向になったらいい。」などと発言した県教育委員の長谷川知恵子氏(71)は19日、謝罪のコメントを出し、発言を撤回しました。同氏の発言を問題ないとしていた橋本昌知事も同日夜に発言を撤回する談話を発表しています。長谷川氏は障害者差別を意図してはおらず、委員も続投する意思を示しましたが、県庁や教育委員に批判の電話やメールが相次ぎ、ツイッター上でも批判のつぶやきが見られます。障害を持つ当事者からの発言も掲載されており、東京都教育委員で「五体不満足」の著書で知られる作家の乙武洋匡さんはツイッターで「私も生まれてこないほうがよかったんですかね?」と発言し、脳性まひの当事者である長野大学の旭洋一郎教授は「『家族や社会の負担になる』というかたちをまとった優生思想によって、自分自身を否定される恐怖に脅かされながら暮らしている。世間にそのことを知らしめることに力を尽くすのが、教育委員のという立場のはず。撤回すればいいものというものではない。」と述べています。
今朝の紙面では、長谷川氏の差別とも受け取られかねない発言内容が問題とされていますが、筆者はそうではないと考えています。問題は発言者が自らの立場に無自覚であったことではないかと考えています。教育委員会はれっきとした公的な機関であり、首長から独立した意思決定も行うのです。そこに所属する以上、自らの発言がその機関としての発言と受け取られかねないという意識は常に求められるでしょう。今回のように障害や差別など、ナイーヴなテーマを扱う際には、より一層の注意が求められます。私人として発言するのであれば、表現の自由が認められ、話題にすらならないようなものであっても、公の肩書がつき、差別を助長しかねないような発言をしてしまうことは、国や自治体が差別を認めたような印象すら持たれかねません。長谷川氏は銀座の画廊の副社長であり、言ってしまえば民間人の顔も併せ持っています。その長いキャリアがあったこともあり、公の人間として自覚が不十分であったのではないでしょうか。
障害のある子どもを産む産まないという決定は、本来その両親に委ねられるべきです。授かった命は育てたいという方がいてもいいはずですし、経済的な問題や満足なケアをしてあげることができないからという理由で産むことを諦めるという判断もあっていいはずです。命を産むことは、障害がないから産め、あるから産むで決められるほど簡単ではありませんよね。それを官が主導してコントロールしたほうがいい、長谷川氏の発言にそのような印象を持った方は少なくないでしょう。障害者の問題に限らず、様々なルールを決める側の人間が個々人の自己決定を蔑ろにしてまで、地域全体の目的を達成しようとするような発言は様々な自由が認められている日本ではあってはならないと考えています。個々の自由な決定や生き方を破壊しないよう、配慮しつつ、社会全体の意思決定を行わなければならない、これが能力や人格以上に公職者に求められる職業規範ではないでしょうか。長谷川氏には続投する以上、その意識を再確認して頂き、他の教育委員だけでなく、全ての公職に関わる方に再確認して頂きたいと願うのは筆者だけではないかもしれまれせんね。
参考記事:20日付朝日新聞朝刊(東京14版)38面(社会面)「『障害児 出産遅らせたら』発言 茨城の教育委員が撤回」より