コロナで自炊疲れ、手料理のみが愛ではない

昨年夏ごろ、Twitterで話題になった「ポテサラ論争」をご存じでしょうか。子連れの主婦がスーパーで総菜のポテトサラダをかごに入れたところ、見知らぬ男性に「母親ならポテトサラダくらいつくったらどうだ」と言われていたところを目撃したというツイートが発端です。ネット上では、その男性はポテトサラダを手作りする手間を知らないのか、母親の理想を押し付けないでほしい、子どもには母親の手料理が一番ではなど丁々発止のやり取りが繰り広げられました。

昨年話題になったツイート(7日スクリーンショット)

これを見たとき、実家に暮らしていたころを思い出しました。母が体調を崩し、スーパーに総菜を買いに行ってほしいと頼まれたとき、できるだけ同じマンションの住人に見られないようにとも言われました。理由が分からず尋ねると、「お母さんがご飯作ってないと思われないか心配だもの」と返ってきました。小学生だった筆者は「大人はそんなことを気にするのか」と不思議に思いましたが、いざ1人暮らしを始めると母の気持ちがよく分かります。決して大人の見栄ではないのです。ここ1年は自炊続きで、時間をかけて作っては一瞬で食べ終わり、食器を洗ったと思ったらあっという間に夕食の時間。この繰り返しにうんざりし、インスタント食品や惣菜をかごに入れることが増えました。しかし、周りから不摂生だと思われないかといらぬ心配をしていまい、かごの中のレトルトカレーやカップ麺を野菜で隠すことも。

今日の日経新聞朝刊では、首都圏30キロメートル圏内に住む家族、単身世帯を対象とする食行動について取り上げています。昨年5月以降食卓に並ぶ手料理の比率は頭打ちになり、今年1月には総菜の比率がプラス基調に。外食に頼りにくい生活がずるずると引き延ばされ、自炊疲れがデータとして表れています。

総菜や冷凍食品の需要が高まる一方で、ポテサラ論争で浮彫になった手料理至上主義の考えは根強く残っています。「総菜を買いたいけれど周りの目が気になる」「手料理=愛なのか」という主婦、主夫の葛藤が目に見えます。もちろんこれはコロナ禍に限った話ではなく、共働き世帯が増える日本がこれからも直面するだろう問題です。

親元を離れた一大学生に言えることは、手料理だけでパートナーや子どもへの愛は測れないということ。スーパーに行くだけでもかなりの体力を使います。総菜であれ、インスタントであれ、食卓に料理が並べられることのありがたさといったらありゃしない。むしろ他者の苦労を想像できないことの方がよっぽど愛がないとさえ思います。時短食品を選ぶことはテキトーな振る舞いではありません。自分の体力や気分をよく理解したうえでの適当な判断ではないでしょうか。

総菜のポテトサラダ、とても美味しい(7日筆者撮影)

 

参考記事:

7日付日本経済新聞朝刊(東京12版)10面「ヒットのクスリ データが語る家事の「心理」」

同日付朝日新聞朝刊(東京13版s)6面「「手軽な一品」に商機」