ホームレス襲撃死 もう一歩近づけて考える

「石を投げると、被害者が鉄パイプを持って追いかけてきたので、心霊スポットを訪れるより、スリルや恐怖感を味わうことができた。」

岐阜市で昨年3月、ホームレスの男性を襲撃したとされる被告は、裁判員裁判で語りました。起訴状によると、少年らは長良川河川敷で生活していた渡辺哲哉さん(当時81歳)に石を投げつけ、約1キロにわたって追跡。さらに、土の塊を投げて転倒させ、死亡させたとしています。

検察側は、「高齢の弱者に多数回投石しながら追い詰めた執拗(しつよう)かつ危険」な犯行だったと指摘。致命傷を与えたとされる会社員だった元少年に懲役八年、従属的だとした無職の元少年に懲役六年を求刑しました。

今朝の読売新聞では、裁判で明らかになった動機や犯行の詳細が掲載されていました。仲間外れを恐れていたこと、授業料を全額免除される野球推薦で大学に入学するも、けがをして退学をしてからはずっと死にたいと思っていたことなど、元少年たちの境遇が記されています。社会との絆の希薄さが背景にあったのではないか、とする少年犯罪に詳しい識者の見解、社会全体での議論の必要を訴える「夜回り先生」水谷修さんの話も添えられ、少年たちに焦点を当てた記事でページの半分が埋められていました。

「遊びとして」の行為がエスカレートした結果だったと知った当時、人の命を軽んじる、あまりに身勝手な行動に、強い憤りを覚えました。被告たちを軽蔑していました。「不幸な境遇」に注目することで、加害者が克服すべきことがぼやけてしまうのでは、という懸念もあります。しかし、このような事件の再発を防ぐために、私たち社会はもっと「どうしてこの事件が起こったのか」と踏み込んで考えなければいけない。そう思わせられたのが水谷さんの次の一言でした。

「一般的に少年は、大人と比べて環境要因に左右されやすいとされるため、彼らが野球をやめたり、夜な夜な遊び歩くようになったりしたタイミングで、家族や大学関係者をはじめ、誰か大人が彼らに手を差し伸べることができなかったのだろうか」

自分も少し前までは周りに流されやすかったし、周囲の人に助けられながら生きてきました。それだけ、人は他の人に良くも悪くも大きな影響を与えて生きているのだとも思います。

「犯罪者」という烙印があまりに強烈すぎて、事件のニュースに触れた時、しばしば「自分とは違う生き物に違いない」と信じ込んではいないだろうか、と自分を省みました。よく聞く「あの人おかしい」「やばい人」などの言葉にもそういったニュアンスがあると思います。「こんなことをするなんて許せない」「人として理解できない」と責めたてるだけでなく、罪を犯した人の背景を知ろうとしたり、もし自分や友人が同じ境遇だったらと想像したりと、一歩自分に引き付けて考えなければならないのではないでしょうか。そうすることで、悲劇の繰り返しを防ぐことに繋げたいものです。

判決が言い渡されるのは25日。どのような司法の判断が下されるのか、それを受けて元少年たちは何を思うのか。注目したいところです。

 

参考記事:

20日付 読売新聞朝刊(愛知12版)28面(地域)「スリル求め投石、追跡」