【コロナ闘病記:中】感染者700人台 浮かべるのは対応してくれた人たち

昨年12月、学生記者はコロナに感染していました。そのときの様子や闘病中に考えたことを3日間にわたりお伝えします。→【コロナ闘病記:上】

 

■ビニール1枚の先に運転手 感染者だと改めて意識する

21日12:40-。自宅前に東京都のマークがついた車が止まりました。ハンドルを握っているのは女性の方でした。彼女のいる運転席とはビニール1枚で仕切られているだけです。車内は常に窓が開いていて、寒く、縮こまって、じっと外を眺めていました。

感染している私と運転手の女性。もし彼女にうつってしまったら、大事な人がいたら、と考えると、申し訳ない気持ちで、必要最低限の会話しかしませんでした。「もう一人乗ってきますから」と言われ、車を走らせること30分。30~40代の大きな荷物を持った女性が同乗してきました。その後はすぐに高速道路を使って西新宿のホテルに向かいました。乗車時間は1時間半。「到着に時間がかかり、申し訳ありませんでした」と降車時に運転手の方から謝られましたが、気持ち大きめな声で「有難うございました」と言って降りました。感染リスクがあるなかで、丁寧な対応に頭が下がる思いでした。

入り口には名前の書いてある封筒がずらり、鍵も入っているので、自分の分を取ってすぐにエレベーターで8階の自室へ。

■夕食は冷えたお弁当 味覚は0

14時過ぎ、ホテルに到着して最初にしたのは、封筒の中身をチェックすることでした。小池都知事からの手紙、注意事項、こころの電話相談所の案内などの書類が。血中酸素濃度を測定するパルスオキシメーターも入っていました。その後、ホテルの事務局からは注意事項の、看護師からは症状についての説明の電話がかかってきました。夕食までは、ベッドに横たわりながら本を読んで過ごしました。

18時から19時は食事の時間です。放送が入ると、部屋にいた人たちが一斉に1階に用意されたお弁当を取りに行きます。陽性者同士は密でした。エレベーターで同乗した人にはジーンズなど普段着姿の人もいました。ホテルには軽症の人しか入ることができませんが、思っているよりも軽い人が多いのではないか、自分は入院しないにしてもやや症状が重い方なのかもしれません。

▲初日は、アジフライ弁当。

1階には、電子レンジが8台。レンジの前には10人ほどが列を作っていたので、体力がなく断念。ペットボトルの水とお茶をもって、戻りました。驚いたのは、焼きそばのカップラーメンがずらりと置いてあることです。お弁当だけではお腹がいっぱいにならないのでしょう。人数分はなさそう。主に男性が手に取っていました。

▲風呂掃除用のスポンジ、お風呂場で洗濯するための洗剤などのアメニティも置いてあった。

この日、味覚は全くなくなっていました。冷たいご飯もアジフライもお茶も味がしない…。鼻が詰まっているときとは違った、生まれて初めての感覚でした。悲しくなって食欲もわきません。残しました。

実は、生まれつき卵アレルギーを持っています。食物アレルギーを持つ人は、ホテル療養はできないと、少し前に母がテレビで見ていたため、エントリーする際に保健所に確認しました。自分で判断して除去できるなら、入所できるということでした。どんな食事が出るのか事前にわかりませんでしたが、1階にはアレルギー表があり、助かりました。

■23歳誕生日、看護師さんに祝われてスタート

21日、入所した日の夜は、頭痛がひどくてなかなか寝付けませんでした。薬を飲むときは24時間体制で常駐している看護師さんに電話をするように、と言われていたので、連絡をしてから病院で処方されていた痛み止めを飲みました。

22日7:00-。放送で目覚めました。体温と血中酸素濃度を指定のスマートフォンのアプリに入力して、1日が始まります。夕食同様に、朝食もすませました。

「今日お誕生日なんですね(笑)。カルテで生年月日が見えてしまいました。おめでとうございます」。午前中に看護師の方から体調の聞き取りがあったときのことです。電話の向こうから優しく声をかけてもらいました。コロナに感染していなければ、親友と会う約束をしていました。看護師さんの言葉が素直に嬉しかったです。

この日は体調がよく、友人4人とテレビ電話をして過ごしました。画面の向こう側で「Happybirthday」と書かれたサングラスをかけている友人を見るだけで励まされました。

■スープ、コーヒー、ミカン 友人の差し入れ

23日は、倦怠感から午前中は横になっていました。食欲もわかず、朝ご飯のお弁当を取りに行きましたが、ほとんど食べることができませんでした。昨日の元気はなんだったんだろうと、少し落ち込みました。

心細いホテル療養でしたが、23日に友人が差し入れをしてくれました。前日までに事務局に申請をすれば、知人や家族が差し入れることができます。カップスープ、ドリップコーヒー、ミカンなどを友人が自転車で届けてくれました。直接会うことはできませんが、窓越しに手を振ることはできました。

少しずつ味覚と嗅覚が戻ってきていました。カップスープの味や香りはあまりわかりませんでしたが、ミカンやコーヒーは味がして、感動しました。ほかの入所者はどんな差し入れを受け取っているのか。差し入れは1階に並べられていて、夕食のお弁当と一緒に受け取るのですが、飲み物やお菓子が多いように見えました。

▲ホテルからの景色、眺めがよくて朝7時に撮影。

■倦怠感残るまま 強制退所

「14日に発症なので、何もなければ10日後の24日に退所になります」と看護師の方に言われていました。その時にPCR検査はありません。倦怠感、そして治ったのかわからない不安が残るまま退所することに。当日は、いつも通り朝7時に体温と血中酸素濃度を測り、アプリに記入はしたものの、看護師による問診はありませんでした。「異常なし」と判断されたのでしょう。午前中には退所し、公共交通機関で帰宅しました。

部屋で使用したもののほとんどは処分します。枕カバー、布団カバー、シーツ、タオル、バスマットは自分で1階のごみ箱に。それ以外のごみもまとめて捨てます。この後、部屋には専門の業者が消毒に入るそうです。

▲部屋の写真、ベッドが広く快適だった。

どうしても一言お礼を伝えたくて、迷ったのですが、一筆残すことにしました。「迷惑だと思うのですが、本当に有難うございました」とメモを残して、部屋を出ました。

■感染者700人台に身震い ホテルの安心感

ホテルに何人の陽性者がいたのかはわかりません。エレベーターの動きから、2階から9階までに使われているようです。食事の時だけしか自室から出られませんが、男女幅広い層がいるなと感じました。中には、幼稚園児くらいの小さな男の子を連れた男性もいました。

ホテル事務局、看護師の方とはすべて電話越しでの会話です。目には見えませんが、たくさんの人が私たちのために動いていることは感じていました。1日2回の体温測定時間と毎食時に放送が入りますが、その時に放送をする人、お弁当などを運び込んでくれる人、ごみを3重にして処理してくれる人、看護師、医者、消毒業者。この場を借りて、お礼を伝えたいです。有難うございました。

ホテル療養中の都内の感染者数は700人台でした。テレビを見るたびに、その数の多さにおののいていました。自分と同じような軽症者から重症者まで毎日700人以上も…。テレビを見て思い浮かべたのは、丁寧に対応してくださった保健所の職員の方、運転手さん、ホテル事務局、看護師、医者などの様々な人の顔や声でした。

ホテル療養で一番良かったのは、誰かに感染させるというリスクがないという安心感です。84歳の祖父と同居しているため、自宅療養のままだったら、お風呂にも気軽に入ることができなかったと思います。精神的にも少しは楽になりました。ちなみに、ホテル療養では一切お金はかかりませんでした。お財布を取り出したのは帰りの電車に乗るときだけです。

12日ぶりの外出。大荷物を背負って帰宅しましたが、へとへとになりました。多くの人に助けられて、療養は終了しましたが、しばらくは家で過ごそうと思いました。

現在の症状はというと、味覚と嗅覚に少し障害が残ります。倦怠感もあります。たまに頭痛も。精神的なことからくるのか、体力が著しく低下しているのか、原因はわかりませんが、気長に完治を待ちたいと思います。

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今回は3回にわたる学生記者のコロナ闘病記です。→【コロナ闘病記:下】
第一回の投稿で、たくさんの温かいお言葉をいただきました。有難うございます。私自身は、立憲民主党の小川淳也議員がPCR陽性時に発信した動画を見て、コロナの恐ろしさを感じ、感染しないように意識していました。私の闘病記を読んだことで、日々のニュースの見方が変わり、もしも感染したときのことを考え、自分の行動を見つめるきっかけになったなら、嬉しいなと思います。

参考記事:

4日付朝日新聞朝刊(東京13版S)7面(オピニオン)「社説 コロナ禍と経済格差 支え合う仕組みの再構築を」

4日15:40読売新聞オンライン「仕事始め、ピリピリ…コロナ下で都庁職員ら危機感」