民主主義をめざして日々の努力の中に、はじめて民主主義は見出される。
今、中東諸国は、この格言も揺らぐような苦境に直面しています。朝日新聞の一昨日の朝刊には、「アラブの春」を経験したチュニジアの現状が紹介されていました。11年、強権体制を敷いていたベンアリ政権の打倒に成功。14年には、言論の自由を保証する新憲法を制定しました。しかし、失業率は革命前より大幅に悪化。社会には閉塞感が漂います。民主化の波が押し寄せたはずの、他のアラブ諸国も強権政治に回帰してしまったり、内戦が発生したり。政情、経済共に不安定なままです。
民主化が十分に進まない要因は様々ありますが、その一つに、政教分離の不徹底がよく挙げられます。アラブ諸国は、イスラム教を国教に定めており、西欧から否定的に見られることが多々。民主的に選出されていない聖職者が政治的影響力を持った場合に、国民の意見が政治に反映されにくくなる可能性。人権、民主主義、平和主義などの価値観や近代的な法律が蔑ろにされる恐れ。信仰の自由が保障されず、異教徒が迫害されるリスクなどが指摘されています。世俗的な社会に暮らす我々日本人も、国と宗教を結びつける行為は非民主的で、悪だと見なしがちです。それでも尚、国教を保持する国が存在しているのは、合理的なメリットがあるからこそだと、筆者は考えています。
まず、西洋風の近代的な法律よりも、歴史的な戒律を維持する方が社会の安定性に繋がります。日本では、戦後に憲法が制定されてから70年が経過し、憲法の精神が国民に根付いています。国民主権、平和主義、基本的人権の尊重。どれも腑に落ちるものです。しかし、公布された当初こそ、パラダイムシフトについて行けず、混乱した人が数多くいました。中東では、歴史的に重みのある宗教を守る方が、社会的秩序を維持しやすいでしょう。
宗教が国民統合の象徴として機能しうることも利点です。例えば、日本では、天皇の存在が国民の団結に大きく関わっています。震災の被災地や戦争の激戦地を訪問する今上天皇の姿に、共感を覚えた国民は数多くいたでしょう。タイも近年こそ状況が変わりつつありますが、王室が国民統合の象徴のような存在になっていました。政治抗争によって社会が分断された状況においても、国民はプミポン国王を尊敬しているという点で一致。同様に、宗教も国民統合の象徴になりうると思います。
行政や立法が暴走した際には、宗教勢力が政治的影響力を発揮して、歯止めをかけられる可能性もあります。ドイツでナチスが政権を握った際には、キリスト教の神父たちが暴政に抵抗しました。アウシュビッツ強制収容所で死刑囚の身代わりとなって命を捧げた、マキシミリアノ=コルベ神父の話は有名です。政府が常に民主的で公正であるとは限らない国家において、特定宗教に「国教」の地位を与えることは、権力分散の一環として理に適っています。
加えて、古代や中世において、国づくりと宗教は密接に関わっていました。国家の安寧を目的に、東大寺の大仏が建造されたように、宗教はある種、国の歴史、社会、文化そのものです。国教の指定によって、その伝統を守っていくことが出来るのです。
このように、特定の宗教を国教と定めることには、合理的な理由が十分に存在します。遅れていると一律に決めつけるのは完全な誤りです。政教分離を掲げる日本とて、仏教系の宗教法人を支持母体とする国政政党が存在していますし、米国の大統領は、就任式典で、聖書の上に左手を載せて宣誓をします。政教を完全に分離することなど、ほぼ不可能なのです。国教を維持しつつも、民主主義の実現も目指す。アラブ諸国には、二つの要素を両立させた国家づくりに挑戦していって欲しいと思います。
参考記事:
21日付 朝日新聞朝刊(大阪14版)1、2面「アラブの春10年 – 革命 将来描けぬ成功例」