山陰随一の堅城 月山富田城を登る

JR山陰本線、松江駅から東へ4駅。安来駅から路線バスに乗り、飯梨川沿いを上流へ遡ること30分。島根県安来市広瀬町に、山陰随一の堅城と言われる「月山富田城」があります。先週末、筆者は島根県に行く機会があったので訪ねてみました。その歴史と現在の様子をご紹介します。

Google Mapより

◇歴史
 月山富田城は、戦国大名の尼子氏が本拠とした巨大山城です。山陰と山陽を結ぶ街道沿いに位置し、松江や出雲、米子などの湊に通ずる立地ゆえ、平安時代末期に砦が築かれました。室町時代から出雲国の守護代となった尼子氏が、軍事要塞として大幅に改修。富田城を足掛かりに山陰山陽の11ヶ国に領土を広げ、尼子氏は隆盛を極めました。

しかし、戦国時代中期になると、隣国の毛利元就が勢力を伸ばすようになります。月山富田城は毛利軍の攻撃こそ跳ね返したものの、兵糧不足には耐えられなくなり落城しました。その後、尼子方の智将、山中鹿介が城の奪還を何度も試みたことは有名です。江戸時代には、堀尾氏が出雲に入封したものの、松江城が新築されて、富田城は使われなくなりました。現在、国指定史跡に指定されています。

◇登城記
 飯梨川沿いに延々と広がる稲田を突き抜けていくと、突如、千戸ほどある大きな集落が目の前に現れます。城下町の安来市広瀬町富田です。その東に位置する小高い山に、お目当ての城が。山麓からでも頂上付近の石垣が見えます。

近くには、市立歴史資料館があります。城跡からの出土品や、武将の甲冑、城のジオラマ模型などが展示されていました。資料館の裏手の登城路から比高150メートルの本丸を目指します。

数十メートル登ると、馬乗馬場、千畳平、太鼓壇、花の壇という曲輪群(※人為的に造成された削平地)に辿り着きます。これらの曲輪には、普段は重臣が住み、戦時には城の最前線として、多くの兵士が集ったものと推測されます。花の壇の南側には、簡素な掘立小屋が復元されていました。門番の詰所として利用されていたのでしょうか。

その次は、山中御殿跡に辿り着きます。殿様が居館を構えていた広大な曲輪です。大量の石垣が曲輪を囲んでおり、周囲に櫓や塀が建っていたと推察できます。城主はここで、軍議や宴会を開いていたことでしょう。

山中御殿跡

山中御殿を過ぎると、尾根の傾斜がぐっと険しくなります。90メートル程登ると、三の丸、二の丸、本丸。城内の最終拠点となることが想定されており、高い石垣に囲まれています。なんと深さ10メートルはあろうかという空堀も。山頂付近に連なる三つの曲輪の側面は、南北東西どこも急斜面になっており、敵方は攻めるのに苦労したこと間違いありません。兵糧攻めするしかないと考えた毛利元就の戦略も理解できます。

三の丸を囲む石垣

頂上からの景色は抜群。中国山地から中海までを一望できます。眼下には穀倉地帯が広がっており、この地に古くから砦が築かれていたことも納得です。汽水湖の中海や宍道湖から離れているため、塩害とは無縁だったでしょう。

月山富田城に実際に登ってみると、難攻不落と言われる理由がよく分かりました。広大な縄張り。立派な石垣。そして、穀倉地帯を手中に収める好立地。歴史学・考古学的価値では、国宝の松江城に勝るとも劣らないと感じます。メインのルートから外れた、人があまり通らない部分の曲輪や石垣が荒れ果てたまま放置されているのは残念ですが、全体的にはかなり復元・整備事業が進んでおり、初心者でも楽しく登れます。

これからの時期、遺構を蝕む夏草が枯れ始め、虫も減り、まだ雪もなく、山城探訪には絶好の季節です。埋もれた古城を訪ね、「兵どもが夢の跡」に触れてみませんか。

 

参考:

『日本城郭体系 第14巻 鳥取・島根・山口』(新人物往来社 発行)

『出雲の山城 -山城50選と発掘された城館-』(高屋茂男 編.ハーベスト出版)

現地の解説板、パンフレット類