自分の時間の使い方を決める自由

私たちは、自分の時間の使い方をどれだけ自由に決められているのでしょうか。

「自分自身の健康管理も首相としての責任だろうと思う。それが十分できなかったという反省はある」

退陣表明の記者会見で、安倍首相はこう述べました。首相の体調をめぐる主な動きについてまとめた表では、新型コロナウイルスの感染拡大を受けた147日連続勤務の文字が目につきます。「首相としての責任」である健康管理は、十分にできる状況にあったのでしょうか。

当人は「体の疲れと言うよりも、気が休まらない」と周辺に漏らしていたといいます。一国のリーダーであるべき人が、息抜きに仕事のことを忘れて自分の時間を楽しめば「国民の抱える問題はあなた以上に大変なのに」と批判され、責任感や罪悪感から身を粉にして働き続ければ「健康管理がなっていない」と責任を問われてしまう。この批判の背景には、政策への厳しい評価もあるのかもしれません。

首相の147日の連続勤務が話題になった時、政権に批判的な立場の人たちの「成果が出ていないのに休んでほしいとは言えない」といった意見も散見されました。首相自身がどう捉えていたのかは分かりませんが、こういった意見は、休みにくい環境を築いてしまっていたのではないでしょうか。筆者自身、新型コロナ対応に関して疑問点は多々ありますが、「一度休んで100%のパフォーマンスをできるようになったほうが良い」という意見が、批判的な立場の人たちも含めて大きく上がっても良かったのではないか、と今になって思います。

みんなが大変な時期に自分だけが遊んでいられない、遊ぶべきではない、という意識は、日本では特に顕著だと思います。同僚が当たり前に残業をしているなか定時に帰るのが後ろめたい、他の人が「自粛」で我慢しているのに自分だけ外に出るのは気が引ける、自分の失敗が原因で大変なのに他の人に仕事を任せるなんてできない…。

仲間が苦労している時に自分も苦労することで集団の調和を図りやすい、一体感や安心感を得る、というメリットはあるかもしれません。また責任の重い役職についていれば、自身が休むことに対してより不安や罪悪感などがあるでしょう。しかし合理的に考えた時、息抜きなしに仕事のことを考え続けることは効率的ではありませんし、視野が狭くなる恐れもあります。また、体の使い方、頭の使い方は人それぞれなのですから、休む時間帯やその長さ、休み方だって人それぞれであることも、もっと意識されていいと思います。

コロナ禍で「不要不急の外出」を自粛するようになり、我慢が強いられることも多くありました。最近では外に出て友達と会う人も増えてきましたが、いまだに「親が厳しくて」と出かけられない友人がいるという話を聞きます。命と天秤にかけられるが故に、人の目も気になりますが、精神衛生上自分に必要だと思えば友達の顔を見てストレスを解消すれば良いのではないでしょうか。自分の人生にとって不要不急であるかどうかを決めるのは他の誰でもなく自分自身ですから。

休むこと、楽しむことの優先順位をもう少し上げ、自身の「頑張りすぎ」をわかっていないことを自覚すべきかもしれません。

 

参考記事:

26日付 朝日、読売、日経新聞朝刊 安倍首相辞任関連記事