被爆体験を語り継ぐ使命、若者にも

広島県に原子爆弾が落とされてから今日で75年。東京近郊にも当時の経験を語り継ぐ方がいる。

東京都町田市原爆被害者の会(町友会)会長神戸(かんべ)美和子さん。7歳のとき、爆心地から3.8kmの自宅で被爆した。1人縁側に座っていると空が赤紫色に光った。ピカッ、ドーン。ガラスが体中に降り注いだ。畑で作業をしていた母に抱えられ意識を取り戻したとき、そこには変わり果てた町の風景が広がっていた。

語り部として活動する神戸さんが、すぐに自身の経験を語った訳ではない。母親の実家である岡山県に転校すると、「ピカドン」と差別を受けた。母親には「自分から被爆者だと言ってはいけない」と言われ、固く口を閉ざしたのだ。神戸さんの兄は、長袖を着る女性と付き合ってはならないと教えられていた。長袖でケロイドを隠しているかもしれないからだ。しかし、家族の反対を押し切り、ひどいケロイドを負った女性と結婚した。

兄夫婦の姿から、原爆の恐ろしさを語ることの大切さを感じたものの、母との約束の間で揺れていた。葛藤を抱えながら参加した日本母親大会で、戦争体験を話す人を見て決心した。最初は涙で何も話せなかった。被爆してから40年が経っていた。

神戸さんのように被爆、戦争体験を語ることができる方は年々減っている。町田市内の被爆者は毎年5、6人亡くなっているそうだ。神戸さんが会長を務める町友会の会員数も330人から190人にまで減ってしまった。全国で見ると、40年前に被爆者健康手帳を保有する被爆者は37万人を超えていた。それが、現在では13万人台、年間に1万人の被爆者が亡くなっている。

 

町田市生涯学習センターには、現在多くの平和祈念展示が並ぶ。市内に住む方々の戦時体験を記す「一枚のハガキ」の中に、戦後満州から帰国した方のものが。

町田市生涯学習センターの展示の1つ。「戦時体験 一つのハガキ」。6日筆者撮影。

戦後満州から帰国した方のハガキ。6日筆者撮影。

今までも話したくても話せない事が沢山ありました。今回話せると思った時は、私もとしで忘れてしまった事が多く、廻りにはすでに聞ける人もいなくなってしまいました。

 

「体が動く間、被爆者として語り継いでいくことは使命。町友会の中では誰もが語るようにしようと話している」。

神戸さんは語る。被爆者にとって語ることが使命ならば、そのバトンを受け継ぎ、後世に伝え残していくことが私たち若者の使命だと思った。私たちの責任は重大なのだ。

 

コロナの影響で、各地で、戦没者のご冥福と平和への祈りを捧げる機会が減っている。それでも戦後絶え間なく続いてきた平和祈念事業をここで終わらせるわけにはいかないと、新たな方法を模索する団体も見受けられる。戦争の恐ろしさを知り、平和が決して当たり前でないことを再認識する日本の夏。新聞からでも、テレビからでも、何でもよい。被爆、戦争体験者の声を受け取ろう。コロナによる大変さを言い訳に目をそらしてはならない。

 

参考記事:

6日付朝日新聞朝刊(東京14版)26面(社会)「最後の語り部 次代へ願い」

同日付日本経済新聞朝刊(東京12版)35面(社会)「愛した人の最期 記した手紙」

同日付読売新聞朝刊(東京12版)5~7面(特別面)「戦後75年特集記事」

 

参考資料:

町田市生涯学習センター「夏の平和イベントホームページ

10日まで戦時資料、被爆証言ビデオの展示や講演会などを開催している。

皆さんもお住まいの自治体ホームページをのぞいてみてはいかがだろうか。