「死」を自らデザインする時代

最近「死」という言葉をよく見かける。「安楽死」や「死亡者数」などが挙げられる。7月18日に自殺で亡くなった三浦春馬さんの死は大々的に報じられ、多くの人に衝撃を与えた。しかし、「自分が死ぬ未来」は誰しも経験するものであって、特別視する必要はあるのだろうか。

芸能人や著名人が亡くなった際に、過去の功績やその人の生い立ちなどが映像で流れる。また、死は終わりという意味も含まれる。国民的アイドルグループの解散発表によって、ファンでもなかった人が急に昔のCDを購入し、売り上げランキングの上位に入り込んだりする。このように死を美化する傾向が見られる。

友達と会話をしていても、過去や未来がテーマだと盛り上がるのに、現在だとしんみりしてしまう。「老後は趣味をしながらまったりと暮らしたい」「高校時代は部活のエースだった」と目を輝かせて話す。しかし、「今は面白くない」と多くの人は口を揃えて言う。

過去と未来に対する強い意識は、他にもあらわれている。未来の中でも、特に「自分の最期」を意識している人は多いだろう。「終活」という言葉が高齢者の間で流行った時期もあった。以前に観たテレビ番組では、棺桶に入って葬式の体験をしたり、遺影用の写真を撮っていた。意外なことに笑顔で楽しむ人が多かった。「人に迷惑をかけずに死にたい」と、にこやかにインタビューを受ける高齢者の顔がいまだに忘れられない。

すでに死ぬという未来を肯定して、自ら終わりを決められる時代が来ているのではないだろうか。人生100年時代の到来、SF作品に描写される「不老不死」が近い未来に実現するかもしれない。そうなると、ますます死について考える機会が増えるだろう。

つい忘れてしまいがちな死という現象。遠い未来にあるイメージが蔓延っているが、かなり身近なことだと思う。より議論が活発になれば、新たな死生観があらわれ、多様な生き方も容認されるのではないだろうか。

参考記事:

27日付 読売新聞朝刊(大阪13版)33面「金額提示 女性から ALS嘱託殺人 通信の詳細判明」