読売新聞に「発言小町」という人気コーナーがあります。インターネット上の掲示板に寄せられた話題から、盛り上がったトピックや面白かったテーマを紹介しています。6日の朝刊では、「結婚した友人と疎遠になってしまい寂しい」という女性の悩みに対し、「依存しすぎ」「相手を思いやる気持ちがない」という厳しい声から、「他に友達を作ろう!」「そんなこともありますよ」といった励ましや共感まで、実に幅広い意見が寄せられました。
匿名かつ、各々の場所から気軽に交流ができるネット上のコミュニケーションでは、様々な視点からの議論が可能です。マスメディアだけでは気づかなかった多くの意見にも出会えます。匿名だからこそ、それぞれの発言が対等に評価され、双方向でより深い議論にもつながります。
しかし、匿名でどこからでもタップ一つで意見を発信できてしまうからこそ、感情に任せ配慮に欠けた発言や雑な議論をしてしまう、という難点もあります。
友人が、こんなエッセイを書いていました。
幸せを運ぶ青い鳥だなんて所詮おとぎばなしである。そして、おとぎばなしは現実にはなり得ない。
朝、目が覚めると現代人の私はまずスマホを手に取る。目覚ましのアラームを切って、SNSのアプリを立ち上げる為だ。 人差し指一本で開かれる青を基調としたそのページでは、いつでも手軽に火事を見ることができる。ある人が落としていった小さな火に、違うある人が大きな団扇を持ってやってきて一生懸命炎を大きくするのだ。
人間、と言ったがその正体はアプリの向こう側にいるので、本当に人間なのかは私は知らない。本当は巨大な羽を持った鳥のバケモノが、ちょっと意地悪をしたくて文字を打っているのかもしれない。
そんなおとぎばなしみたいなことがあったら怖いな、と思うが、そのバケモノの正体が本当に人間であることよりは幾分マシだと思う。……
差別的なことを当たり前のように発する人。あたかも正論めいた言い回しで巧妙に論点をズラし、自分の立場が正しいのだと、自身も周りも錯覚させるような人。相手の人格を否定するばかりで問題と正面から向きあおうとしない人。相手の考えをしっかり理解しようとせずに、揚げ足取りばかりしたがる人。バケモノの正体は、こういった人間どもでしょうか。Twitterを見ていると、怒り、悲しみ、喜び、絶望…様々な感情が押し寄せてきて、体力を吸い取られてしまう、なんてこともしばしばあります。友人のエッセイでは、「SNSのアプリ」–––Twitterの恐ろしさや不気味さがとてもよく表されているなあと感心します。
匿名投稿や文面のやりとりに限らず、議論することはとても難しいと、最近痛感しています。恥ずかしながら、未だに家族内で問題があった時、しばしば「なにくそ、負けるか」という感情が先行してしまいます。そのため、ただの「言い合い」になってしまうのです。自分の立場が辛くなったとき、Aについて指摘されたのにもかかわらず「じゃあBはどうなの」「こっちにはCというメリットもあって…」なんて調子で、都合よく論点をすり替えがちです。自分の最初の主張を曲げることに抵抗してしまうわけです。
「バケモノ」になってしまう原因の一つに、「自分の立場が絶対的に正しい」と思い込む傲慢さがあるのではないか、と感じます。そのため、自分の立場を決定づけるうえで欠かせない指摘や意見に、真正面から向き合えなくなるのです。人間1人が見ることのできる世界は限られているし、自分と全く同じ景色を見ている人はいないはずです。全ての世界を知っている人などどこにもいません。自分には正しく見えていた主張が、新しい視点によって覆る可能性を常に意識することは、議論をする上で大事なことではないでしょうか。また、そういった姿勢を身につければきっと、一生懸命に炎を大きくしようとする、アプリの向こう側のバケモノの正体も見えてくるはずです。彼らのもつ巨大な羽だって、虚構に過ぎないのだと気づくことができるかもしれません。そうなれば、インターネット上のコミュニケーションも案外、有意義に上手く利用できるのではないでしょうか。
友人は、エッセイをこう締めくくっています。
今日も私はアプリを立ち上げる。青い鳥のくちばしに己の心臓を突き刺されないように細心の注意を払って。
私たちは、幸せも運ぶ鳥にも、バケモノにもなりうるでしょう。羽の使い方にはくれぐれもお気をつけて。
参考記事:
6日付 読売新聞(愛知12版)「発言小町 結婚した友人と疎遠 寂しい」