現実逃避から始まった人生の転機−−ルダシングワ真美さんが歩んだ道【前編】

みなさんは、「ルワンダ」という国を知っていますか。

アフリカ大陸の中央部に位置するルワンダは、「千の丘の国」と呼ばれるほど緑豊かな丘陵が広がる国で、マウンテンゴリラの生息地としても知られています。1994年にはジェノサイド(ルワンダ大虐殺)が起こり、約100万人が犠牲となる悲劇を経験しました。これは植民地時代にベルギーが民族を分断して統治した政策が深く影響しており、その結果として激化した民族対立が引き起こしたものです。その後、新政府が発足し、民族間の融和や国際社会との連携を進めた結果、近年では「アフリカの奇跡」と呼ばれるほどの経済成長を遂げています。

一方で、過去の悲劇の爪痕に加え、不十分な医療体制や経済発展に伴う交通事故の増加などで、手足を失う人が少なくありません。こうした障害を負った人々の多くは、十分な支援を受けられず、不自由な生活を強いられているのが現状です。

そんなルワンダで、障害を持つ人々のために義肢装具を作り続けている日本人がいます。ルダシングワ真美さんです。先月から日本に帰国している真美さんは現在、全国各地で講演を重ねており、私が通う大学でも来月に予定されています。それに先立ち、今回取材の機会を得ました。

本稿では、真美さんが義肢装具士として歩んできた道のりとルワンダでの活動を前後編に分けて紹介します。前編では、日本での閉塞感からケニアへの留学を決意し、ガテラさんとの出会い、そして義肢装具士になるまでの歩みをたどります。

(ルダシングワ真美さん提供)

現実逃避でアフリカへ

神奈川県で生まれ育った真美さんは、専門学校を卒業後、法律事務所で事務職として働いていました。毎日書類を作り続ける息の詰まるような職場に違和感を覚えるようになったといいます。「同年代の女性たちと同じように働くことに反発心を抱いていた」と振り返ります。周囲と同じように生きることに物足りなさを感じ、「そうした人たちから距離を置きたい、日本を出て現実から逃げたい」という思いが募っていきました。

そんな時、書店で偶然手に取った本の中に「ケニアでスワヒリ語を学びませんか?」という一文を見つけます。もともとアフリカに特別な興味があったわけではありませんでしたが、その言葉が心に響いた真美さんは、勤めを辞めてケニアへの語学留学を決断しました。

 

ガテラさんとの出会い

ケニアでの現地の人々との交流や異文化に触れる体験は、真美さんにとって刺激的で忘れられないものになりました。そしてそこで出会ったのが、夫であるガテラ・ルダシングワ・エマニュエルさんです。ガテラさんはルワンダからの難民で、子どもの頃の病気治療の失敗により足に障害を抱えていました。

真美さんとガテラさん(ルダシングワ真美さん提供)

「初めて会った時、人と違う外見に驚いたものの、話してみると自我が確立しているだけでなく、生き抜こうとする『強さ』が感じられた」と真美さんは話します。ケニア滞在中、日本人女性という理由で気安く接してくる男性が多い中、ガテラさんはそうした態度を一切取らず、自然に会話ができたことも新鮮だったと振り返ります。

「難民として厳しい生活を送りながらも、一生懸命生きようとする姿勢が言葉の端々から感じられました」。

滞在期限を迎えて日本に帰国した後も、二人は文通を続けました。やがて真美さんは「彼を意識している自分に気付いた」と語ります。自分の気持ちを確かめるため、再びケニアを訪問し、1年ぶりの再会を果たしました。お互いの思いを確認したものの、現実は簡単ではありませんでした。これまでのように組織に属してではなく、独立した形で働きたいと真美さんは考えていましたが、すぐに生かせる技術や専門性を持っていなかったため、現地での生活を始めることには難しさを感じていました。ガテラさんも難民の立場でルワンダに戻ることはできず、そこで真美さんはしばらく日本で一緒に過ごすことを提案し、ガテラさんは日本へ渡航することになりました。

 

義肢装具士という新たな道

日本滞在中、ガテラさんの装具が壊れ、二人は横浜の義肢製作所を訪れました。そこでは職人がひとつひとつ手作業で義足や装具を作っています。その様子を間近で見た真美さんは、技術力の高さに感銘を受け、ガテラさんのために自分の手で義足を作りたいと考えるようになります。

決意を固めた真美さんは、OL生活を辞め、義肢製作所に弟子入りして修行を始めました。そこでは親方の補佐を務め、一人で義肢を作ることは許されませんでした。それでも作業を間近で学びながら少しずつ技術を磨いていきました。「苦労したと感じたことはありません。すべてが新鮮で、親方の言うことが絶対という環境の中で修行することが自分に合っていました」と真美さんは当時を振り返ります。

しかし1994年、修行の最中にルワンダでジェノサイドが始まります。この混乱の中、アフリカに戻っていたガテラさんとは連絡が途絶え、生死も分からない状況が続きました。不安な日々を過ごす中、3か月後にようやく国際電話がつながり、ケニアにいるガテラさんの無事を知ることができました。

その後、5年にわたる修行を経て十分な技術を身につけた真美さんは、ついに義肢装具士の国家資格を取得し、ルワンダへ渡ります。97年、現地で義足を必要とする多くの人々を支える新たな生活が始まりました。

 

後編では、真美さんがガテラさんとともに「ムリンディ/ジャパン・ワンラブ・プロジェクト」を設立し、現地で活動を続ける中で直面した困難や挑戦、そして真美さんからのメッセージをお届けします。

 

参考資料:

駐日ルワンダ共和国大使館 ルワンダ旅行情報

読売新聞オンライン 2018年度(第25回)ルワンダで義肢を無償製作・提供 ムリンディ/ジャパン・ワンラブ・プロジェクト代表 ルダシングワ真美氏

ムリンディ・ジャパン ワンラブ・プロジェクト ワンラブ・プロジェクトの歩み

シチズン時計株式会社 ルダシングワ 真美さん

Web eclat 【これが私の活きる道】ルワンダで義肢の無償提供を始めて26年。ルダシングワ真美さんの生き方とは?

東京都人権啓発センター 思いは「一人の人のため」

長岡市米百俵財団 ルダシングワ 真美