「デジタル技術は一部の個人と組織の力を強める一方で別の個人の力をくじき、一世代前にはほとんど想像できなかった好機とリスクの両方を生み出すだろう」。アメリカのタフツ大学で「心の哲学」を研究するダニエル・デネット教授は、情報の透明化についてこう語ります。年金機構の相次ぐミスは、透明化する現代において秘密を守る組織運営の難しさを教えてくれています。
年金機構のまとめによると、2010年1月の発足以降、確認間違いや入力漏れといった事務処理ミスの発生が毎年2000件台に上り、14年の段階で1万件を超えていることが明らかとなりました。年金記録の入力を誤り5千万件以上が宙に浮いた事件で社会保険庁が廃止されてから5年、今も変わらない現状が見えてきます。ここ数年の相次ぐ失態に、年金への信頼を失ったのは筆者だけではないはずです。
あらゆる面でスピードの遅さが目立ちます。そもそも何年もの間、こうした不手際が減らないのはなぜでしょうか。「原因はずさんな管理体制にある」という指摘は散々なされてきました。しかし朝日新聞の取材に答えた機構幹部は、「制度がどんどん複雑になり、職員もシステム的に追いつけていない」といいます。確かに年金をめぐる制度は時代に合わせて変化しています。ただし法案が成立してから導入されるまで年単位の時間があったわけで、その間に新しい制度の導入準備は済ませておかなくてはいけません。さらに絶望的なのは、外部に悪意をもった攻撃者がいるということです。今年5月の情報流出事件は、個人情報を得ようとした者のメールから始まり、実際に詐欺被害も報告されています。こうした緊迫した状況において、制度が一新されたからという言い訳は感心できません。
たとえば携帯電話を持つかどうかは個人の自由だと思いますが、それがビジネスマンであれば、携帯を使いこなすだけでなく、悪質なメールに騙されないようでなければ評価されないはずです。被受給者は日本の総人口のおよそ4分の1、年間支給総額7兆円を扱う組織が「デジタルデバイド」に悩まされているようでは、通常の企業なら淘汰されてしまうでしょう。
国民の秘密を預かる以上は、攻撃を跳ね返し、受け流せるように自ら進化していかなくてはいけません。機構幹部は職員数が少ないと嘆いているようですが、筆者は思い切って人数、特に意思決定者を減らしてしまった方がいいのではないかと感じます。逐一外部の許可を取っているようではスピードが失われてしまうのは当然ですから、限られた意思決定者が迅速に対応策を決める仕組みを導入すればよいでしょう。一方で政府の組織は、常に国民の監視に晒されます。少人数による意思決定と透明性を両立させながら、改革をどうやって国民に説明するのか。このバランス感覚がこれからの年金機構には求められています。
<参考記事>
8月24日付 朝日新聞朝刊14版 1面『年金機構 ミス1万件超』