丸亀城は何を見せようとしているのか
同じ四国の城でありながら、丸亀城と松山城はどこが違うのか。その答えを探すため、2026年9月10日に丸亀城、翌11日に松山城を訪れた。
小学生の頃から日本史に興味があり、日本100名城の制覇を目指して小田原城や姫路城などを訪れてきた。今回は大学の友人との四国旅行で、丸亀城と松山城を巡った。丸亀城は四国最小、松山城は四国最大の城だが、どちらも現存12天守に含まれ、重要文化財に指定されている。両者の差は何から生まれたのか。写真や資料では分からない違いを、自分の足と目で確かめたいと考えた。
この記事は3回に分けて書く。第1回の丸亀城、第2回の松山城では、それぞれ同じ観点から見たことを記録する。第3回では2つの城の結果を比べ、その違いが何を意味するのかを考察する。
今回は、丸亀城の道のりと石垣、天守を見ていく。最初に目にしたのは、天守が小さく、内堀が水をたたえた、どこか奇妙なバランスの姿だった。
どう登らせる城か
丸亀城の登城口は大手門である。ここから天守までは、歩いて15分ほどだった。
登る前に、内堀の水面を目にしていた。小さな天守と、水をたたえた堀。その組み合わせにどこか不思議な印象を受けたまま大手門をくぐった。
最初に待っていたのは、見返り坂と呼ばれる急な坂道だ。案内によれば、傾斜がきついため、登る途中で思わず立ち止まって振り返りたくなることが名前の由来だという。実際に歩いてみると、遠くから見た時よりもはるかに坂が急で驚いた。これまでいくつかの城を登ってきたが、規模こそ小さいものの、この勾配のきつさは際立っている。
息を切らしながら振り返ると、先ほど見た水堀の景色が見えてきた。頭上には木々が覆いかぶさり、険しさを和らげようとするかのように緑が広がる。しかし同時に、実際に攻め入る立場を想像すれば、この坂そのものが攻撃の足を止めさせる強力な難所となることを肌で感じさせられた。
石垣をどう見るか
見返り坂を登りきった先で、筆者の目を引いたのは石垣の圧倒的な存在感だった。丸亀城は「石垣の城」とも称されるが、実際にその場に立って、その理由が痛いほどよく分かった。
特に印象に残っているのが、三の丸北側にある石垣だ。丸亀市の公式サイトによれば、城内の石垣で最も高く、20メートル以上の城壁が続くという。遠目からでもその高さは際立っていたが、近づくにつれて見上げる石垣の迫力に圧倒された。
ここで一つ気づいたことがある。それは、天守の規模が小さいからこそ、相対的にこの石垣の大きさと美しさがより一層引き立っていたということだ。全体のコンパクトさと、それを支える巨大で堅固な石垣のコントラストが、この城の大きな特徴だと感じられた。
さらに見入ってしまったのが、隅角部の「算木積み」だ。隅角部では、長い石と短い石が交互に組み合わされ、緩やかな美しい曲線を描いて立ち上がっている。この曲線は「扇の勾配」と呼ばれ、城を再築した山崎氏の手によるものだという。
四国最小の城でありながら、なぜこれほどまでに石垣が堅固で美しいのか。その造りの妙に触れ、次は城内や天守からどのような景色が広がっているのか確かめたくなった。
天守から何が見えたか
石垣の迫力を背に、さらに歩を進める。三の丸広場の南東の隅には、少し高くなった石垣があり、そこが月見櫓の跡だ。あいにくこの日は線状降水帯が四国を覆っていたため空は厚い雲で覆われていたが、土器川の流れと讃岐富士とも呼ばれる飯野山の姿が望め、見事な風景だった。悪天候であっても目を奪われる景観の広大さは、城が築かれた場所の地理的な意味を教えてくれる。
続いて、山上の最高点である本丸にたどり着いた。ここには天守のほか、石垣の上に隅櫓や渡櫓、土塀が連なっていたという。現在は、礎石と排水路の一部が復元されている。
そして、丸亀城の象徴である天守へと向き合う。その構造は三重三階で、本瓦葺、高さは約15メートル。1943年(昭和18年)に当時の基準による国宝に指定され、1950年(昭和25年)に重要文化財となった。全国に12しか残っていない、建てられた当時の姿をそのまま伝える貴重な現存木造天守の一つだ。
天守自体は東西約11メートル、南北9メートルとコンパクトだが、近づいてよく見ると面白い工夫が施されている。城下から天守を見上げた時に実際より大きく見えるよう、東西に広く造られているという。登り口の坂や石垣と同様に、この天守にも「見せ方」へのこだわりが隠されている。
さらに内部へと足を踏み入れると、ひときわ目を引いたのが「狭間(さま)」や「石落とし」と呼ばれる防御のための様々な仕掛け穴だった。北側にある裏口通路の防御を固めるため、北面の壁には石落としが設けられ、さらに室内から矢や鉄砲で敵を攻撃するために三角形や四角形の狭間がいくつも開けられている。
「現在、この城の狭間の扉は実際に開け閉めすることができ、そういったお城は数少なく、貴重な歴史資料である」と丸亀城天守受付のスタッフの方が話していた。
外観のどこか愛らしくも見えるバランスの良さと、実際に敵を迎え撃つための実戦的な仕掛けの同居。小さな天守のなかに秘められたこの二面性こそが、丸亀城を歩く最大の面白さなのだと実感した。
なぜこの場所に城が築かれたのか(歴史と役割)
見事な石垣や天守に触れ、眼下の景色を眺めるうちに、そもそもなぜこの場所にこれほど厳重な備えの城が築かれたのかという疑問が湧いてきた。その背景には、丸亀城が歩んできた複雑な歴史と、地理的な重要性がある。
丸亀城の歴史は、1587年(天正15年)に豊臣秀吉から讃岐一国を与えられた生駒親正が、子の一正とともに1597年(慶長2年)から築城を始めたことに端を発する。丸亀は瀬戸内海に面し、塩飽諸島にも近い。当時の海上交通や物資の集散地として極めて重要な場所であり、丸亀城は讃岐西部の支配に加え、瀬戸内海の交通を管理する拠点としての役割を担っていた。
しかし、1615年(元和元年)の「一国一城令」によって、丸亀城は一度廃城となる。その後、1643年(寛永20年)に山崎家治が再築に着手した。山上の縄張りは現在の形とほぼ一致し、扇の勾配の高石垣もこの山崎氏の手によるものだ。さらに1658年(万治元年)に京極氏が入り、2年後に天守が完成した。
歴史を紐解くと、この城が果たしてきた役割の多面性が見えてくる。丸亀城は、敵から領地を守るための純粋な防衛拠点であるだけでなく、藩主が讃岐西部を治めるための政治・行政の中心でもあった。そして、高石垣や現存する天守は、単なる機能美にとどまらず、藩主の権力や圧倒的な存在感を広く示すための「象徴」としての役割も担っていたのだ。
あの急な見返り坂を登り、目の当たりにした巨大な石垣の迫力や、小さな天守に隠された緻密な工夫。それらはすべて、この地を治め、瀬戸内海を見据え続けた者たちの歴史的必然から生まれたものだったのだと腑に落ちた。
まとめ:松山城との比較に向けて
こうして丸亀城を歩いてみると、小さな天守やコンパクトな規模の裏に、計算し尽くされた緻密な工夫が隠されていることに気づく。遠くから見れば愛らしい姿をしているが、ひとたび足を踏み入れれば、急峻な見返り坂やそびえ立つ高石垣、そして実戦的な狭間や石落としが、城としての本来の役割を突きつけてくる。
「四国最小の城」と呼ばれる丸亀城は、ただ小さいだけではなく、限られた空間の中でいかに敵を阻み、同時にいかに威厳を示すかという知恵が詰まった場所だった。
そして翌日、「四国最大の城」である松山城へと向かった。大きさも成り立ちも異なる2つの城は、それぞれどのような思想で築かれ、筆者たちの目に何を映し出すのだろうか。次回は松山城の全貌を深掘りしたい。
参考記事:
・2026年8月28日付 朝日新聞(夕刊)(大阪) 6面 「歴史の新視点、とらえた 全日本お城写真コンテスト2026」
・2025年2月2日付 日経電子版 「城でにぎわい創出 松山はVR合戦、岡山は地図で回遊」
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCC177DZ0X10C25A2000000/
参考資料:
・丸亀市公式ホームページ 丸亀城 マップ・スポット紹介 https://www.city.marugame.lg.jp/site/castle/2897.html#link8
・丸亀市公式ホームページ 丸亀城 丸亀城の歴史 https://www.city.marugame.lg.jp/site/castle/2930.html
(最終閲覧はすべて2026年10月2日)







