安倍晋三首相は9日、首相官邸で記者会見し、憲法改正について「決してたやすい道ではないが、必ずや私の手で成し遂げたい」と述べた。安倍首相は、先日逝去した中曽根康弘元首相と並ぶほどの「改憲派」であり、5月3日の憲法記念日になれば各新聞社が首相の改憲への意思を大きく取り上げている。
憲法改正、特に、9条改正に熱心な首相だが、法律や政治学を学ぶ学生として、一言述べておきたいことがある。それは筆者には憲法9条が全くわからないという問題である。
筆者の大学で教鞭をとる政治学者は、「個別的自衛権がよくて、集団的自衛権がダメだなんておかしい」と述べている。一方で、多くの憲法学者は「個別的自衛権は認められるが、集団的自衛権は認められない」として「違憲だ」と断じている。
法学部政治学科の筆者としては、「法学部」の憲法学者の主張を信じるべきなのか、「政治学科」の国際政治学者の主張を信じるべきなのか。
上述の政治学者も憲法学者も筆者が足元にも及ばないほどに、勉強をしてきて、その道を極めてきた方々である。そのような顕学が全く正反対の主張をしているのである。学部二回生の筆者にとってはどちらの意見が正しいのか全くわからない。
さらに、多くの憲法学者は「自衛隊は違憲である」との立場に立っており、同時に憲法改正には反対と主張している。ならば自衛隊廃止を主張するのが筋だと思うが、その声はあまり聞こえてこない。なぜなのだろうか。
一体、憲法9条のもとでは何が認められて、何が認められないのか。全くわからない。本を読めば読むほど、様々な解釈に遭遇し、よりわからなくなってしまう。
憲法とは国のルールであり、個人の権利を保障したり、国家の行動範囲を縛ったりするものであるはずだ。それ故に、憲法について私たち国民が無関心な状態は良くないであろう。しかし、現実は戦後74年経った今も国民に浸透したといえる状況に至っていない。
しょせん、多くの国民にとっての憲法は、「個別的自衛権は良くて、集団的自衛権はダメ!」、「いや、その認識は誤っている!」と喧々囂々の議論をする知識人の姿をお茶の間で楽しむ時ぐらいしか関心を寄せることはない。
なぜ、日本人はこれほどまでに憲法に無関心なのか。要因は様々あるであろうが、憲法9条が象徴するような分かり難さが国民から憲法を遠ざけているのではないであろうか。
繰り返すが、憲法とは国民が権力を縛り、権利を守るための道具である。知識人がディベートで白熱するための道具では決してない。
憲法改正となると、やれ「日本の伝統」や「いつかきた道」だとの議論となる。確かに、これらの議論も必要かもしれない。しかし、筆者としては、義務教育を受けた段階、つまり、中学校卒業程度の学力があれば、ある程度理解できる「わかりやすい」憲法に変えるとの議論もなされてはいいのではないかと思う。
難解だと国民が使いこなすことは難しい。そのような現状を打開し、真に国民の憲法となるための論議がなされてもいいのではないだろうか。
安倍首相、そして与野党には、「わかりやすい」憲法の観点からの議論を国会で展開してもらいたい。
まぁ、その前に「桜を見る会」問題を解決しないといけないんですけど・・・。
参考記事:
11日付 朝日新聞朝刊14版1面「改憲論議 今国会も進まず」