「香港 学生ら抗議継続」
今朝の朝刊の見出しである。香港では今、中国本土への犯罪者の移送を可能にする逃亡犯条例改正案の撤回を求め、立法会前に学生など数百人が座り込みを続けている。16日のデモには主催者発表で200万人が参加したという。その規模は名古屋市の人口に匹敵する。警察発表でも34万人が参加したというのだから、香港市民の決意は並大抵のものではない。
読売新聞の報道によると、デモの後も学生たちは徹夜で座り込みをしたが、大きな混乱は起きていないらしい。中心にいるのは筆者と同年代の学生たちだ。確たる意志を持ち、権力機関に声を上げていることに脱帽する。
ちょうど30年前には中国本土で若者たちが声をあげた。民主化を求めた学生が北京の天安門広場に集まって運動を展開。しかし戒厳軍によって弾圧され、多数の犠牲者が出た。中国で「天安門事件」は今もタブーの扱いである。当時、民主化を求めて運動に参加した劉建さん(50)は朝日新聞の取材で、自身の思いを語っていた。
「学生たちは国を愛していた。それを軍が銃で鎮圧した。そんな歴史を若者にきちんと知ってほしい」
歴史を遡ればちょうど100年前にも朝鮮半島で学生運動があった。日本の植民地支配からの解放を訴えた「3.1独立運動」である。当時の日本の報道を見ると、独立運動の中心に学生がいたことがうかがえる。運動直前の1919年2月25日付の東京朝日新聞には「朝鮮学生廿一名引致」との記事がある。記事によると、神田の朝鮮人会館で集会を開いていた学生21名が西神田署員の手によって検挙された。独立宣言に関する会合があったとみられる。この後、幾人もの手によって独立宣言書が印刷され、配布されていった。
同年3月4日付の同紙には「鮮人の運動」と大きな見出しで独立運動の模様が報じられている。「京城にては官立学校の男女先頭に立ち群衆を指揮し市街を練り歩き…」「手に手に太極旗をかざして男学生に女学生も参加す」。学生たちがデモ行進の中心にいたことが分かる。
韓国ではその後も民主化を求めるデモが繰り広げられ、度々3.1独立運動の精神が議論に持ち上げられる。韓国の友人に尋ねてみると様々な答えが返ってくる。
ある友人は「独立宣言書自体は知識人だけの動きにとどまったが、独立運動は多くの民衆を巻き込んで大きな流れを作った。植民地支配に対する朝鮮人の思いを示せたのでは」と見ている。
別の友人の分析は「3.1運動は象徴的な意味で大きな影響を及ぼした」というものだ。「民衆運動として、民主主義の根幹を提供した。光州事件(1980年)や6月抗争(1987年)など、韓国の民主主義運動の脈につながる」。
筆者は先月、ソウルを訪れ、市内の博物館で「ソウルと平壌の3.1運動」と題された企画展を見学した。館内では独立宣言書の全文が音声で読み上げられ、スクリーンにも映し出されていた。子どもが、母親と思しき女性とともに宣言書を音読していた。「良心はわれわれとともにある」。展示されていた独立宣言書からは、支配に屈せず声をあげた人々の情熱が伝わってきた。
日本の若者も例外ではない。昭和30〜40年代には学生運動が盛んだったと聞く。筆者は高校の社会科で見た1960年の安保闘争の写真が印象深い。国会前に雪崩れ込んだ学生たちの姿に目を奪われた。
一連の香港デモ、天安門事件、3.1独立運動、安保闘争を見ていると、その渦中には必ずといっていいほど若者がいる。ふと我が身を振り返る。果たして社会の理不尽に目を向けてきただろうか。「おかしい」と思うことがあっても、見て見ぬ振りをしていなかったか。あらたにすの編集部スタッフ紹介ページに筆者は「あらたにすの記事から世界を少しでも良い方向に動かします」と述べている。一体どれほど良い方向に動かせたのだろうか…。
確かに言えるのは、社会を変えるために声をあげる若者が世界中にいるということ。今は、香港の勇気ある同年代に声を届けたい。
加油!
参考記事:
18日付朝日新聞朝刊(東京14版)2面「ひと 3.1独立宣言書を韓国に寄贈した 佐藤正夫さん」
同日付読売新聞朝刊(東京13版)2面「香港 学生ら抗議継続」
6日付朝日新聞(電子版)「『天安門事件はタブー』それでも 歴史の真相伝える人々」
1989年6月5日読売新聞朝刊1面「天安門、死者千数百人に」
1919年2月9日付東京朝日新聞 「朝鮮學生大檢擧 六十餘名 西神田署に」
1919年3月4日東京朝日新聞5面「鮮人の運動」