沖縄では普天間基地の名護市辺野古への移設計画を巡り、14日に埋め立て海域への土砂投入が始まりました。これを受けて、玉城デニー沖縄県知事は「土砂投入を強行したことに強い憤りを禁じ得ない」と反発。
読売・朝日・日経の三紙は社説で次のような見解を示しています。読売新聞は、政府に対して県の理解を求める努力を促しながらも、基地被害の軽減という移設の意義を粘り強く訴えながら丁寧に工事を進めていかなければならない、と政府に同調。これに対して朝日新聞は「民意も海に埋めるのか」と強い見出しをつけ、辺野古が唯一の解決策だという考えに疑問を示します。「沖縄の過重な基地負担を減らす名目の下、新規に基地を建設するという理不尽を、政権は力ずくで推進している」と徹底的に批判しました。日経新聞は「いま国がすべきなのは、沖縄の過重な基地負担がどう解消されていくのかを、わかりやすい形で県民に示し、少しずつでも理解の輪を広げることだ」とし、沖縄の負担に焦点を当てて政権のさらなる努力を求めています。
二紙に共通して出てきた言葉があります。「現実的」です。
読売「普天間の固定化は避けなければならないとの認識で、知事は政府と一致しているはずだ。従来の主張にこだわらず、現実的な解決策を考えるべきである。」
日経「普天間移設が政治課題になって20年以上がたつ。いまさら移設計画を白紙に戻すのは現実的ではない。だからといって、力ずくで反対運動を抑え込めばよいのか。」
これを読んで、ふと政治学者・丸山眞男の論稿「『現実』主義の陥穽」を思い出しました。日本では「現実」という言葉の使い方に特徴があると丸山はいいます。まず、現実とは既成事実と等置され、「現実だから仕方ない」というふうに「仕方のない」過去とみなされる。そして私たちが「現実」というときには、無数にある事実からある側面を、とりわけ時々の支配権力が選択する方向を(無意識に)選択している、というものです。
正直、当初の2022年目標は無理でも、何だかんだで普天間返還は粛々と進められていくのだろうなと思っていました。ここ数年の政治の動きを見ていると、どうしても「これが現実だから仕方ない」と感じます。このように考えるのは私だけでしょうか。しかしそうしているうちにも、こうあってほしかったという「現実」はどんどん弱くなり、選択肢は狭まります。
移設問題を巡っては国民的な議論が再三呼び掛けられてきました。個々の意見発信は容易ですが、それらは一方通行になりがちです。一般的な議論の方法には意見聴取会や、参加者を募ってグループ討論する「討論型世論調査」などが挙げられます。そうした取り組みをメディアも利用しながらオープンな場で繰り返していくことが、沖縄の問題を我がこととして捉える意識を強めると思います。
引用・参考記事
16日付 日本経済新聞朝刊(東京13版)2面(総合1)「(社説)沖縄に理解求める努力を」
同日付 朝日新聞朝刊(東京14版)30面(社会)「辺野古守りたい、託す灯 移設反対 ろうそくで訴え14年」
15日付 各紙関連記事
参照文献
丸山眞男『〔増補版〕現代政治の思想と行動』(未來社、1964年)