筆者の住む多摩地域での平和学習の一環として3日間広島での体験を積んできた。初日は平和記念資料館を回り、被爆を体験された方からお話を伺った。2日目は8時15分の鐘を聴き、午後はスポーツと平和の関連を調べるため、戦後の広島発祥のスポーツであるエスキーテニスの体験に参加した。3日目は袋町小学校の資料館とサンフレッチェ広島のサッカーミュージアムを訪れた。
あまりに高すぎる理想と、ではどのように現実と折り合いをつけるのか、という問いかけ。その疑問にとらわれ続けた3日間だった。この間、核兵器の悲惨さをこれでもかと言うほど見聞きした。例えば初日の講話。被爆者の八幡さんという方に話を伺うことができた。
その語りは、まるで昨日の出来事を話すかのようだった。原爆の落ちた日のことのみならず、その前の国民学校での生活のことや、その後日譚も詳らかに語ってくれた。国民学校では特に心についての教育が重点的に行われたそうだ。国への愛国心や忠誠心をはじめ、親には従順に、友や兄弟とは仲良くすべきという教えがあったそうだ。また、特攻隊に志願させられた少年が、一人息子で農家の親を置き去りにできないと拒否しようとしたエピソードも聞いた。上官には国を思わないのかと罵られ暴行を加えられ、強制的に特攻に駆り出された。彼はその後帰らぬ人となったという。
原爆の落ちた日は、夏休みで晴れた空だったそうだ。爆風で吹き飛ばされたものの屋内にいたためガラス片による怪我のみで済んだ八幡さんは途中黒い雨に打たれながらも親戚を頼り、避難することとなる。その折に酷い火傷に見舞われた人たちが水を求めながら彷徨う姿はさながら幽霊だったそうだ。赤、茶、黒の3色のみで構成されていたという市街地を抜けて親戚のもとに辿り着き、ひぐらしの鳴き声でやっと、自然を実感したそうだ。そのときに食べたおにぎりが今も忘れられないという。
平和記念資料館では、記帳ノートが印象に残った。各国から異なる言語で書かれた記憶、想いは脈々と受け継がれている。特に、「FREE GAZA」と書かれたページや、「后人哀之而不鉴之 亦使后人而复哀后人也」(将来の世代が親族の死を悼んでも、彼らから学ばなければ、彼らもまた将来の世代に親族の死を悼ませることになる)の一文は印象に残った。展示物も、明らかにただの火傷ではないものが「顔の火傷」とされていたことに、不気味さや違和感を覚えた。ただ、あのような大きな火傷を負ってなお生きることができる人の生命力ゆえの痛苦のようなものに触れた気分になった。
2日目には被爆した路面電車の650型に乗ることができた。車体は遥か過去のもの。そこに現代に至るまで補修や技術を詰め込んできた様子は、広島という街の承継の象徴を表しているかのようだった。
卓球とバドミントンとテニスを足して3で割ったとも言われるエスキーテニス の体験会では、その成り立ちやなぜ広まったのかを知ることができた。考案者の宇野本さんは現在4代目。今も理事として小学校などに普及活動を続けているという。
3日間で私自身、核はいけない物だと明確に認識できた。しかし、廃絶は極めて難しい。今世界には10000発以上の核があるとされ、それに守られているという国も多い。自らの防衛における生命線をむざむざと手放す国があるだろうか。3つの隣国が核を保有している日本も例外ではない。厳しい安全保障環境を見たとき、核抑止論を排除することが本当に正しいのかと考えざるを得ない。
2月にはこの体験を政策提言という形で発表する場がある。行き場のないこの問いに答えを出せる日は来るのか。葛藤は続く。