宇都宮空襲から、間もなく80年。戦争体験者は減り、当事者の声や痕跡に触れるきっかけは少なくなりました。栃木県立博物館では県内最大の戦災を伝える展示「とちぎ戦後80年」が12日から始まりました。終戦まで1カ月ほどという時期に市街地の半分が焼け野原となった無差別攻撃はどのようなものだったのでしょうか。
45年7月12日午後11時19分ごろから13日午前1時39分ごろにかけて、米軍のB29爆撃機115機が宇都宮の上空にやってきて1万2704個の爆弾を投下しました。市街地は一夜でがれきと化し、620人以上が亡くなりました。軍事関連施設ではない市街地を狙った攻撃は、東京大空襲から始まり宇都宮は37都市目でした。
なぜ標的にされたのでしょうか。米軍は早い段階から市内の「中島飛行場」や関連する軍事施設に目を光らせていました。中島飛行機宇都宮製作所は45年1月から戦闘機「疾風(はやて)」を生産していました。これは陸軍から速度、上昇力、運動性などの向上を目指すようにとの指示を受けて開発され、終戦までに宇都宮製作所、群馬県の太田製作所を中心に約3600機が作られました。宇都宮空襲以前にも市内東部にあった宇都宮陸軍飛行場や大田原市の金丸原陸軍飛行場には戦闘機が頻繁に来襲し、被害を受けています。
大戦初期、米軍は軍需施設を狙っていましたが終盤になると作戦が変わります。市街地を焼き払い、国民の戦意を喪失させることが目的となったのです。宇都宮は「軍都」、工場労働に従事する人が暮らす人口10万人にも迫る大都市でした。そして、12日の深夜、中心市街地の中央国民学校(現市立中央小学校)が投下目標となり空襲が始まったのです。
展示では日露戦争から終戦まで宇都宮が軍都になっていく様子が描かれています。日露戦争の講和条約に関する県内の反発や第一次大戦の情勢などを報じる号外など当時の下野新聞の記事が展示されていたことも印象的でした。他にも実際に投下された焼夷弾や戦闘機の部品も数多く展示されおり、これらの多くは市民団体「ピースうつのみや」が寄贈したものです。しかし、会員の高齢化が進んだことを理由にこの市民団体の活動は今月で終了します。
全国の市民団体や語り部の活動は高齢化が進み、戦争遺品の維持が難しくなっている現状があります。行政が運営する施設でも予算や収納スペースに限界があるため引き取りが困難になっています。兵士の書いた従軍日記のような資料は山ほどあり、今後は遺品や資料を整理しつつデジタルアーカイブできる環境を全国的に広めていく必要があるのではないかと感じました。
参考記事:
13日付 下野新聞 特別紙面 宇都宮で大空襲
29日付 朝日新聞デジタル「80年前の宇都宮空襲、次世代に伝える企画展 栃木県立博物館が開催」(https://www.asahi.com/articles/AST7X462GT7XUUHB00CM.html)
6月20日付 朝日新聞デジタル「ピースうつのみや、40年の活動に幕 貴重な「遺産」引き継ぐのは」(https://www.asahi.com/articles/AST6M32G6T6MUUHB009M.html)