第172回芥川賞を受賞した『ゲーテはすべてを言った』で注目を集める鈴木結生さんは、筆者の通う西南学院大学の先輩です。大学のイベントなどでかねてより交流があったことから、作品の背景や文学を愛する人として思うことについて、伺う機会を得ました。
本稿は、前後編に分かれています。後編では、活字への思いや今後の展望など、鈴木さん本人に焦点を当てたインタビューをお届けします。前編では、初期3部作と呼ぶ作品への思いや背景をお伺いしました。前編はこちらから。
→http://allatanys.jp/blogs/26880/
◾︎「21世紀」に描かれる文学の意義
鈴木結生さんは、2001年生まれ。21世紀生まれで初の芥川賞受賞者とされます。20世紀と21世紀の間に、違いはあるのでしょうか。
「21世紀生まれ初の芥川賞作家であることは、あまり考えていません。それで売れている様子もないし、僕の作品で『21世紀初』と言われても、どこが21世紀なのだという感じがありますから(笑)。17世紀のシェイクスピアを研究して、ルネサンスは新しい時代だなと思っています。最近19世紀文学を読み込んで、やっと、20世紀の文豪を書けるかなというところです。僕自身が21世紀の人間だって感じもありません。ビートルズとかシェイクスピアとか、好きなものも古いものが多いですね」
21世紀的でないと自称する鈴木さんですが、作品の端々に、21世紀という同じ時代を生きていることが感じられました。『ゲーテはすべてを言った』ではモデルでタレントのアンミカさんが、『携帯遺産』では片づけコンサルタント「こんまり」こと近藤麻理恵さんが描かれています。
「それは意識して書いているところで、現代の読者に入ってもらわなければならない、という思いがあります。反応してくれる人が多数いるから、小ネタとして現代的なものを含めることは、非常に良いと思っています。ポストモダンはやっぱりそういうところがあって、大衆文化をどうやって文学に引き入れるかというのは、非常に重要です。本をあまり読まないという人が反応してくれるのも、やはり、そういうところ。文学は、文学好きだけが楽しむものだったら面白くないと思うので」
「加えて、現代に書かれるという意義が、文学にはあると思うんです。文学的に記録されるべきなのかという点は、自分の中で重要な判断基準です。『ゲーテ』に関して言うと、アンミカさんのあのことばは、文学的に記録して良いと思いました。徳歌(のりか)があのことばに言及することは、世代間ギャップがある中で、僕的に必然性がありました。ただ単に若者の会話として書くのはあまり好きではなくて、作品内で自立的に意味を加えられるのかということを重視しています」
◾︎活字離れと新聞
活字離れや読書離れが進んでいるといわれる今、小説からことばを受け取ることの意味とは何でしょうか。
「まず、活字とは何かを定義する必要がありそうです。辞書的な意味では、21世紀を生きる人々ほど、活字に触れている人はいません。僕にとって活字っていうのは、編集と校正が入っているかどうかに支配されていると思います。つまり、他者の目を受けていることばが『活字』なんです。今では、スマホやパソコンを使って簡単に小説を書くことができます。けれど昔の人にとって、簡単にできることではなかった。だからこそ(活字は)、選ばれた人にしか使うことができないという、神聖性があったのだと思います。小説を書いてプロっぽくないと感じるときは、プリントアウトして修正します。そうすることで他者の目を通すことになって、神聖な意味の『活字』になると思います」
「ちょっと活字に夢中になって、話が迂回しましたけれど(笑)。僕は1回も、活字から離れたことがありません。だから、芥川賞受賞後に『どうすれば若者は本を読みますか』と聞かれましたが、僕ほど答えるのに不適当な人はいないですよ。親が読書をするしかないのかなって思います。親が本を読んでいたら、だいたい子どもも読みますから。そういう意味で、僕は教育に恵まれたとしか言いようがないんですよね」
「一方、作家になってからは、現状に憂いを感じるわけです。ハード面に関して、電子書籍みたいに移行していくことは必然だと思います。それでも、おしゃれな人がCDやレコードを好んでいるみたいに、神聖的な意味の『活字』や紙の本がなくなることはないと思います。伝統芸能でいいから、文学に付き合っていきたいものですね」
同じ活字メディアとして、新聞への思いも語ってくれました。
「僕自身が本を書くようになって、各紙から取材を受けるようになって、新聞にはまだまだオールドメディアとして力があると感じるんです。周囲の人が読んだと報告してくれるエッセイは、文芸誌ではなく新聞に掲載されたものばかりです。それから、新聞記者の人は、良心的な人が多いと思います。やはり、1番遅いメディアだから。迷う時間が長ければ長いほど、ことばは練られていきます。僕の小説でも同じです。それに、かなり多くの人が関わってつくるものだから、遅いメディアとして確実性があるっていうのは確かです」
◾︎今後の展望ついて
19世紀の文豪をテーマとし、初期3部作を書き上げた鈴木さん。修士論文の執筆にも追われているといいます。今後、どのように活動していく予定なのでしょうか。
「企画ものの短編を、いくつか執筆していく予定です。直近では『小説トリッパー』(朝日新聞出版)2025年夏季号に掲載されます。西南学院大学で開かれた芥川賞受賞記念講演会で平野啓一郎さんもおっしゃっていたように、短編には実験できるところがあります。いろいろな手法を試したいですね」
「書きたいものとしては、来年くらいまでに長いものを書いて、デビュー作『人にはどれほどの本がいるか』とあわせた1冊にしたいです。大衆文学的なエンタメ性の強い作品を書いて、読者との距離を縮められたらという思いもあります。僕的に『ゲーテ』は、すごく大衆的だと思うんだけれど、難しいという感想もやはり多いです。ただ読んでいて楽しい小説を書きたいとも思っていたので、純文学の領域で、できる限りエンタメ性の高い長編を書きたいです。今年は、長編執筆プランを維持しつつ、修士論文を書いていきます」
■編集後記
快く取材を受けてくださった鈴木結生さん、ありがとうございました。質問すると、堰を切ったようにことばがでてくる姿から、文学への愛を感じます。本インタビューを通し、小説家とは別の形で、ジャーナリストとして「ことば」や「活字」に関わりながら生きていきたいという思いが強くなりました。そのためにも、鈴木さんのように膨大な量の本を読んでいきたいものです。
朝日新聞出版社より本日6日、『携帯遺産』が単行本として発行されます。非常に文学的な自信作と鈴木さんご自身が語っておられる本作を、ぜひ読んでみてください。
参考記事:
・2022年12月25日付 朝日新聞デジタル 「片づける…それは『過去に片をつける』覚悟 こんまりさん流の考え方」
https://www.asahi.com/articles/ASQDN4H5LQDDUPQJ016.html
参考文献:
・『人にはどれほどの本がいるか』,鈴木結生,2024年3月18日,小説トリッパー2024年春季号,朝日新聞出版
・『ゲーテはすべてを言った』,鈴木結生,2025年1月15日,朝日新聞出版
・『携帯遺産』,鈴木結生,2025年3月17日,小説トリッパー2025年春季号,朝日新聞出版