「黙秘権」は、憲法第38条および刑事訴訟法によって明確に保障されている権利であり、「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」と定められています。かつて自白が重要な証拠とされていた時代には拷問などによって供述が強要され、その結果多くの冤罪が生まれました。こうした過去への反省から、国家権力による不当な供述の強制を防ぐ必要性が強く認識されるようになったのです。
実際、過去に発生した冤罪事件の多くは違法または不適切な自白を契機として引き起こされてきました。たとえば袴田事件では、長時間にわたる取り調べで得られた自白が有罪認定の根拠とされましたが、後に証拠の捏造の可能性が指摘され、再審で無罪が確定しました。この事件は、黙秘権が十分に尊重されなかったことが冤罪の一因となった典型的な事例といえるでしょう。
黙秘権は刑事事件の被疑者または被告人に対して法律上明確に保障されています。しかし、制度として存在しているにもかかわらず、実際の運用においては、十分に機能しているとは言い難い状況が続いています。取り調べの現場では、黙秘を選択した人に対して心理的な圧力が加えられる事例も少なくありません。
たとえば2018年、犯人隠避教唆の疑いで逮捕された元弁護士の江口智也さんは、取り調べで黙秘を貫いた結果、56時間にわたり「ガキだよね」「うっとうしい」といった侮辱的な言葉を浴びせられたと証言しています。また読売新聞の記事では、逮捕直後から黙秘権を行使した被告人が検事から不適切な対応を受けた事例が報じられました。これらは、黙秘権のが法的には認められていても、行使には大きな困難を伴う実態を示しています。
日本では黙秘という選択そのものが、「何かを隠しているのではないか」「反省していないのではないか」といった否定的な評価と結びつきやすい傾向にあります。加えて、報道のあり方もこうした印象を助長していると考えられます。たとえば、「○○と供述している」という表現はニュースで頻繁に使われますが、「黙秘している」と報じられると、まるで説明責任を果たしていないかのような印象を与える場合があります。結果として、黙秘権を行使した人が社会的に不利な立場に置かれる構造が生じています。
また、このような状況の背景には、日本社会に特有の価値観や社会的慣習が深く関わっていると考えられます。
第一に、「正直に話すことは美徳である」という考え方です。広く共有されており、率直な供述や謝罪の言葉が、誠意や反省の証しとして受け取られる傾向があります。こうした文化的背景のもとでは、沈黙はしばしば誠実さに欠ける態度として見られたり、何かを隠しているのではないかという疑念を招いたりすることがあります。
第二に、日本に根づく「空気を読む」文化も黙秘に対する否定的な見方を助長しています。取り調べのように、被疑者が自らの立場や考えを明らかにすることが期待される場面では、沈黙を貫く態度が非協力的あるいは無責任とみなされてしまいます。語らないという選択が説明責任の放棄と解釈されやすい土壌が、黙秘という権利の実質的行使を難しくしているのです。
本来、黙秘権は罪の存否にかかわらず、すべての人に等しく保障されるべき権利です。供述の有無が量刑に影響を及ぼす構造や、黙っていることそのものが不利益とされるような風潮は、この権利の本質を損なうものであると言わざるを得ません。制度が存在することと、それが実際に行使可能であることとは、必ずしも一致しないのです。
黙秘権が本来の趣旨に即して、誰もが安心して行使できる権利として社会に根づいていくためには、制度の運用を見直すだけでなく、私たち一人ひとりの意識や価値観のあり方も問われているのではないでしょうか。
参考記事:
5月11日付 朝日新聞朝刊(東京14版)1面「取り調べ強制、黙秘権どこへ 拒むと「物扱い」、提訴へ」 関連記事2面
読売新聞オンライン「特捜取り調べ『違法』提訴 黙秘に『反社』 録画 証拠採用要求へ」
日本経済新聞電子版「黙秘の被疑者に検事が『ガキ』 二審も国に賠償命令」
参考資料:
e-Gov 法令検索「日本国憲法」
日本弁護士連合会「袴田事件」
CALL4「強い気持ちを持つ人しか行使できない日本の『黙秘権』は、もはや権利ではない」