「お腹を痛めて産んだ子」「痛みに耐えてこそ母になれる」
出産をめぐり、こうした言説が今もなお強い影響力を持っています。出産の苦しみを通じて新しい命の尊さを実感すべきだという考え方は、多くの場面で当然のことのように語られています。実際、出産体験は「壮絶だった」「耐え抜いた」と表現されることが多く、その記憶にはしばしば痛みや苦しみが重ねられます。そして、それを乗り越えた人こそが「本物の母親」であるかのような暗黙の評価基準が日本には根づいているように思われます。
このような社会通念は、出産にともなう痛みを「意味あるもの」「必要なもの」と位置づけてきました。しかし、痛みがあるからこそ意味があるという考え方は、裏を返せば、痛みがなければ出産に価値がないという結論につながりかねません。果たして、痛みだけが出産を意味あるものにするのでしょうか。
出産の選択肢のひとつに、麻酔を用いて痛みを軽減する「無痛分娩」があります。欧米では一般的な方法として定着しており、たとえばフランスでは8割以上、アメリカでも7割を超える妊婦が選んでいます。一方、日本における実施率は2割未満にとどまっています。
その背景には、医療体制の整備や情報提供の不足といった制度的な課題に加えて、「痛みを避けるのは甘え」「自然でない」といった偏見があることが挙げられます。無痛分娩という選択肢は、日本社会において十分に認められているとは言いがたいのが現状です。
一方で、無痛分娩を経験した人たちからは、「痛みによる体力の消耗が少なかった」「家族と落ち着いて出産の時間を共有できた」といった肯定的な意見が多く聞かれます。痛みが抑えられていたからこそ、心に余裕を持って赤ちゃんの誕生を迎えられたという声も少なくありません。
そもそも、私たちは日常生活の中で痛みを避けるために医療の力を当たり前のこととして利用しています。たとえば、歯科治療では麻酔を使うのが一般的ですし、外科手術でも同じです。それにもかかわらず、出産に限って「麻酔を使うのは不自然」「楽をしている」と否定的に捉えられるのは、どこか矛盾しているように思われます。
こうした見方の背景には、出産が長いあいだ過度に神聖視されてきたという文化的な歴史があるのかもしれません。命を生み出す行為だからこそ、痛みや犠牲が伴って当然だという考え方が私たちの中に無意識に刷り込まれてきたようにも思われます。しかし、神聖であることと苦痛を伴うことは同義ではありません。苦しみの少ない出産であっても、命と向き合う尊さには変わりがないのです。また出産の痛みは、母親の愛情や責任感に影響することもありません。
無痛分娩という選択は痛みから逃げることではなく、自らの身体と向き合い、どのようなかたちで命を迎えるかを主体的に考えた結果であり、尊重されるべき意思決定のひとつです。出産において本当に大切なのは、命とどう向き合い、そのプロセスをどう経験するかではないでしょうか。
無痛分娩をめぐる価値観を問い直すことは、私たちが自分の身体をどう捉えていくかという、より根源的な問いに向き合うことにつながります。それぞれの女性が自分に合った方法で安心して出産に臨める社会の実現に向けて、まずは私たち一人ひとりが、出産における痛みの価値を根本から見直すことが求められているのではないでしょうか。
参考記事:
4月19日付 朝日新聞朝刊(東京13版)2面(総合2)「無痛分娩、安心して選べるように 都、最大10万円助成へ」
読売新聞オンライン「無痛分娩、日本で広がらない背景とは…『陣痛を乗り越えて母になる』根深い思い込み」
読売新聞オンライン「無痛分娩で3人目を出産…リスクと誤解『言ってはいけない』圧力」
参考資料:
日テレNEWS NNN「【前編】『お腹を痛めた子』出産の痛みへの意識はいま…無痛分娩への賛成は8割超でも実施率1割以下にとどまるワケ【独自アンケート】」
独立行政法人国立病院機構 京都医療センター「無痛分娩 Q&A」
鷲田清一(1997)『メルロ=ポンティ——可逆性』(現代の思想の冒険者たち 第18巻)講談社