この夏の体験を記します。夏の暑さ真っ盛りの8月。筆者にとって初めてとなる長崎に向かい、友人らとともにまず向かったのは平和公園でした。
つい1週間ほど前に広島を訪れたばかりだった筆者にとって、広島の原爆資料館や市内の博物館などの記憶もまだ新しいままでした。
空港から平和公園へ向かうバスに乗ること約40分。目的地である平和公園に着きました。
平和公園は、長崎駅の約2.5キロメートル北に位置する、面積約18.5ヘクタールの総合公園です。国道206号を挟んで東側は、祈念像地区、中心地地区、長崎原爆資料館地区に分かれており、それぞれ「願いのゾーン」、「祈りのゾーン」、「学びのゾーン」と位置付けられています。西側は「スポーツのゾーン」として、市民総合プールや野球場などの再整備が予定されています。
平和公園は小高い丘にあるため、公園へと繋がるエスカレーターを昇ります。ちょうどエスカレーターに乗っているとき、外国からのツアー客と思われる集団とすれ違いました。国外からも注目される場所であることが伺えます。
エスカレーターを上がりきると、直径18メートルの「平和の泉」がありました。
1969年(昭和44年)に完成したもので、平和祈念像の前方に位置しています。また、被爆し水を求めてさまよった少女の手記を刻んだ石碑が正面に設置されています。
『原爆のため体内まで焼けただれた被爆者たちは「水を、水を」とうめき叫びながら死んでいきました。その痛ましい霊に水を捧げて冥福を祈り、世界恒久平和と核兵器廃絶の願いが込めて浄財を募り建設された、円形の泉です。』
泉の目の前では、祈りをささげる外国からの訪問者の姿が見られました。また石碑に刻まれた手記を見て、原爆は年齢や性別を問わず多くの人を苦しめたことを実感しました。
平和の泉から平和祈念像へと続く道の両脇には、様々な像や碑がありました。この「長崎の鐘」もその一つです。当時被爆地には、魚雷や戦車などを生産する多くの軍需工場があったそうです。動員学徒や女性挺身隊と呼ばれた中学生や女学生など、多くの人々が働いていました。長崎の鐘は、33回忌にあたる1977年に、ここで亡くなった方々の冥福を祈るために作られたものです。
ここは、長崎刑務所の浦上支所があった場所です。敷地面積は約2ヘクタール、庁舎面積は約1.3ヘクタールでした。原爆の爆心地から北へ最短約100メートル、最長約350メートルの地点にあり、爆心地にもっとも近い公共の建物でした。原爆炸裂時にあった、刑務支所の周囲の壁の一部が今も残されています。
職員や官舎に住んでいた家族、受刑者、被告など併せて134名が即死しました。被告のなかには、強制連行された中国人が32人、朝鮮人が少なくとも13人いました。
長崎刑務所浦上支所跡案内を通り過ぎると、平和公園の突き当りに教科書や戦争に関するニュースで幾度となく目にした、「平和記念像」がありました。
高さは約9.7メートル、上空を差す右手は原爆を、水平に伸ばした左手は平和を表しています。また、顔は犠牲者の冥福を祈っているとされています。
平和記念像を制作したのは、彫刻家の北村西望(1884~1987)です。戦前は、軍の依頼で軍人の銅像など戦意高揚の彫刻をつくっていたそうです。
平和記念像の横には、平和記念像作者の言葉が記されてありました。日本語だけではなく、英語、中国語、韓国語でも書かれています。
写真の黒御影石は、原爆の落下中心地標柱を示す碑です。アメリカのB29爆撃機から投下された原子爆弾は、松山町171番地の上空約500メートルで炸裂しました。
像や爆心地を示す石碑のある広場から少し下ったところに、「被爆当時の地層」が残されていました。のぞいてみると、家の瓦やレンガと思われるような破片が至る所にありました。筆者が立っていた場所にたくさんの人々が暮らしていたこと、そしてひとつの爆弾によって多くの尊い命とその生活が失われてしまったことを実感しました。
これは、移築された旧浦上天主堂の遺構です。
原爆により、わずかに堂壁を残した状態で崩れ落ちました。もともと、原爆による多大な被害を受けた浦上地区は、キリシタン布教の地としても知られるエリアです。旧浦上天主堂も、双塔を持つレンガ造りのロマネスク様式大聖堂として東洋一の壮大さを誇っていました。移築された遺跡の一部には、原爆の爆風による石柱のずれをみることができました。
長崎に落とされた原爆で亡くなったのは日本人だけではありません。長崎刑務所浦上支所にいた捕虜をはじめとする多くの中国人、朝鮮人の方も亡くなりました。この写真に写っているのは、長崎原爆朝鮮人犠牲者を追悼する碑です。筆者が訪れたときには、花と多くの水のボトルがお供えされていました。公園内には他にも、「浦上刑務支所中国人原爆犠牲者追悼碑」が建立されています。
これは「長崎原爆資料館」の入口の写真です。
館の扉を抜けて館内に入り、コインロッカーに荷物を預けると、らせん状のスロープを下って下の階に降りていきます。現代から時間が遡るような仕掛けになっており、訪問者は1945年の長崎を訪れるというわけです。
浦上天主堂の側壁など、実際に被爆した建造物が再現されているなど、まるでその当時の長崎に足を踏み入れたようでした。また、被爆の惨状のみならず、原爆が投下されるに至った経緯や核兵器開発の歴史などが展示されており、現代に生きる私たちはどう考えるのかを問われているようでもありました。
つい1週間ほど前に広島を訪れたばかりだった筆者にとって、広島の原爆資料館や市内の博物館などの記憶もまだ新しいままでした。1945年に広島と長崎で起きたそれぞれの出来事を、安易に重ね合わせたり比較したりすることはできません。「原爆」という名のもとに一括りにすることは、しかし、悲惨な出来事を後世に伝え、戦争を繰り返してはならないという強い思いは共通しているように感じました。
2024年のノーベル平和賞は、被爆者の立場から核兵器廃絶を訴えてきた日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が受賞しました。日本被団協は原爆投下から11年後の1956年に結成され、68年にわたって核兵器廃絶を世界に訴える活動を行っています。
その一方で、2022年2月から始まったロシアのウクライナへの侵攻は終結が見えず、イスラエルとパレスチナの戦闘においても、依然として多くの死傷者がでています。
被爆地訪問から3か月余りが経ちました。明るい話題と暗いニュースが交錯する日々が続いています。
【参考記事】
2024年8月20日付 朝日新聞デジタル「生誕140年北村西望の未公開デッサン画展、島原で 平和祈念像作者」
2024年8月20日付 朝日新聞デジタル「平和の像が覆い隠す負の歴史 モニュメントで考える追悼と記憶の継承」
2024年8月20日付 朝日新聞デジタル「長崎の平和祈念像、左右逆や立像の案も 作者の構想資料見つかる」
【参考資料】
2024年10月12日 NHK「2024年のノーベル平和賞に日本被団協 核兵器廃絶訴え」