来年で10年が経つネパール地震 時が止まったままの田舎を見学しました

先月8日、宮崎県で最大震度6弱を観測した日向灘地震が起きました。巨大地震発生の注意を呼び掛ける南海トラフ地震臨時情報が発表されたことにより、県内の宿泊施設はキャンセルが相次ぎ、1か月が経った今日でも観光産業への打撃は続いています。幼稚園を卒園するタイミングで起こった東日本大震災をきっかけに、筆者は災害に関心を持ちました。世界の災害史を調べていると来年で10年が経つネパール大地震に目がとまりました。そこで夏休みを利用して実際にネパールの被災地を見に行きました。

甚大な被害をもたらしたシンドパルチョーク郡・中国国境近くのタトパニ(8月19日、筆者撮影)

2015年4月25日、首都カトマンズから北西に約77キロ離れたゴルカ郡を震源にマグニチュード7.8の地震が発生しました。死者は9000人以上にのぼり、強度の弱いれんが造りがほとんどだったため約100万棟が全半壊しました。その後も余震は続き、5月12日にはマグニチュード7.3の大きな余震が再び被災地を襲いました。

世界遺産が立ち並ぶバクタプルも大きな被害を受けた(8月29日、筆者撮影)

カトマンズ盆地は約1万年前まで湖であったと考えられており、非常に特殊な軟弱地盤です。そのうえプレート境界断層の上盤側に位置しているため、巨大地震が発生する地質学的なリスクが高いとも言われています。1934年にはマグニチュード8.4のビハール地震、2011年にはインドを震源とするシッキム地震が起こり首都でも多くの犠牲者が出ました。

首都からバイクタクシーで南におよそ10分のところにパタンという街があります。バイクタクシーは安価なうえに通常のタクシーやバスよりも早く移動することができます。カトマンズ盆地にかつて3つの王国があった時代、首都として栄えた街がパタンです。

修復中のパタン・バイデガ寺院(8月24日、筆者撮影)

世界遺産ダルバート広場で観光ガイドをしている50代の男性によると、地震の発生で街は混乱していたといいます。男性はダルバート広場から徒歩で15分ほどのサトバトという街に住んでいます。地震が発生した正午ごろは家で洗濯をしていました。地震が来るとみんな家から飛び出します。男性も家が大きく揺れ、崩れ落ちそうだったと振り返ります。崩れ落ちていく建物を見て、泣いたり叫んだりする人もいました。中には地球が崩壊するという人もいました。男性の家も後に崩れました。その後、安全な場所で生活を送り、みんなを連れて家族を探しに行きました。幸い彼の家族は無事だったといいます。

ネパールの歴史的建造物が多く倒壊した地域にバクタプルという街があります。首都からバイクタクシーで東に約20分、カトマンズ盆地の先住民族によるネワール建築の美しい寺院が立ち並ぶ場所です。かつての旧王宮があった広場は1934年、2015年の地震が起こる前は多くの寺院に囲まれていました。ダルバール広場やバクタブルの街中を散策していると修復中の寺院を見受けられます。

ダルバール広場の様子(8月29日、筆者撮影)

カトマンズ盆地の中で特に大きな被害を受けたのは首都の約20キロ東に位置するサクー。筆者はバイクタクシーで向かいました。首都から離れれば離れるほど地震の被害はひどく、復興も進んでいないと感じました。半壊している家が多く、その家に住み続けている人が多くいる印象です。あたりを散策していると地元住民が集まる広場を見つけました。広場にいたダモダール・アチャリヤさん(34)に地震当時の様子を聞きました。

サクーでは壊れた家が目立つ(8月12日、筆者撮影)

ダモダールさんは地震を本当に悲しい出来事だったと思い返します。サクーを含むこのエリアはシャンカラプルという自治体で、2014年に6つの村を合併して形成されました。地震によりシャンカラプルでは100人もの人々が亡くなったといいます。当時、人口3万人、7000世帯が暮らしていましたが、90%が被災しました。この広場にある寺院と学校は9年前に建てられたものです。地震が起こる前も同じ場所に寺院と学校がありました。広場には20人ほどの人が集まっており、明日も来ていいよと言ってくれ、フレンドリーな空間でした。

9年前に建てられた寺院

こちらも同じ広場にある学校。建てられたのは地震後の9年前(2枚とも8月12日、筆者撮影)

筆者はネパール大地震で最も被害が大きかったところを実際に見たいと思い、カトマンズの北東約70キロにあるシンドパルチョーク郡に足を運びました。バスで約2時間。料金は250ルピー(1ルピー=約1円)。バスは険しい山の中をゆっくりと進みます。車内は大きく揺れるため前の座席にしっかりと掴まっていないと、大きな観光バスの天井に頭を打ち付けるほどです。

シンドパルチョーク郡カリカ村(8月17日、筆者撮影)

シンドパルチョーク郡は甚大な被害があったためネパール政府から復興の優先地域に指定されています。この郡だけで死者はおよそ3500人に達し、これはネパール大地震による死者全体の40%ほどを占めます。家が密集しているカトマンズとは違い、自然が豊かで各家庭で家畜を飼育したり農作物を育てたりして生活をしています。シンドパルチョーク郡カリカ村に住む60代の男性は「家が揺れ始め、みんなが外に出るように叫びました。そしてみんな路上に座り込み、動揺していました」と話してくれました。

カリカ村の民家。れんが造りで屋根はトタン。

家の中に物はなく、住んでいる気配はない。

この建物はトイレ。田舎ではトイレを別の建物として作っている家が多い。

この家の入口に取り付けられていたプレート。ネパール語で地震復興プログラム民間住宅再建支援事業と書かれてある。そして上から持ち主の名前、契約番号、住所、支援額30万ルピーと記されている(4枚とも8月17日、筆者撮影)

山岳地帯では崖崩れが発生して多くの道路が寸断され、医療支援や物資が行き届かない村もありました。山岳地帯ではインフラが整っていない地域も多く、避難生活は困難を極めたといいます。

ネパールの若い男性は生計を立てるためにインドや中東に出稼ぎに行きます。そのため災害時に村にいたのは老人や女性、子供だけで倒壊した家を再建する労働力が不足しました。また被害が大きかった地域では児童労働や人身売買、女性への性的搾取が深刻な問題になりました。依然として続くカースト問題も浮き彫りになりました。

ネパールの田舎、カリカ村の様子(8月17日、筆者撮影)

村を歩いていると未だにれんが造りの家が多いことに疑問を持ちました。地震が起きる前と同じ造りで強度がありません。しかし、コンクリート造りにすると多額の費用がかかってしまうため、レンガ造りしか選択肢がないのです。被災地での収入はなく、政府からの支援金もごくわずかです。

国境付近タトパニの様子。左に見える山は中国(8月19日、筆者撮影)

ネパール大地震は国内にとどまらずインド、中国、バングラデシュと多くの地域に被害をもたらしました。ネパールと日本は災害多発国という点で共通していると思います。近年、南海トラフ巨大地震の発生が懸念されており、今まで以上に防災に目を向ける必要があります。ネパールの被災地を実際に見て山岳部の復興の難しさを実感しました。これからも世界の災害に関心を持ち、現場に足を運んでみようと思います。

 

 

 

 

参考資料:

 

Shankharpur 2015 Earthquake Memories(https://storycycle.com/shankharpur/)

関西学院大学 ネパール大地震後の貧困と復興(https://www.kwansei.ac.jp/cms/kwansei_fukkou/file/research/bulletin/saigaifukkou_2021/kiyou13-06.pdf)

 

参考記事:

 

2018年4月25日付、日本経済新聞電子版 国土復興、道遠く ネパール地震から3年(https://www.nikkei.com/article/DGXMZO29817380V20C18A4CR0000/)