蝉が鳴き、強い日差しが照り付ける8月中旬から下旬にかけて、初めて広島県と長崎県を訪れました。原爆に関する資料館や建物、慰霊碑を訪れたいと思ったからです。筆者は宮城県で育ち、学校行事でもプライベートでも広島と長崎を訪問する機会はありませんでした。しかし、日本に生まれた者として、一度は自分の目で原爆の実態と現在の姿を見て考えたい。その思いでそれぞれの地に赴くことにしました。
下調べのなかで、そして実際に広島と長崎の地を歩いてみて、街のあちこちに戦争の跡が残っていることを実感しました。世界遺産である原爆ドームや、代表的なスポットである原爆資料館、平和公園のみならず、被爆建物や慰霊碑なども多く現存しており、街全体で原爆投下という事実を後世に伝えていくという強い決意を感じました。
今回は広島、次回は長崎での訪問先と時間があれば訪問したかった場所を紹介します(リストとマップは後掲)。
広島県庁近くの広島バスセンターを降りて、原爆ドームの方向へ向かうこと約10分。「元安橋」がありました。爆心地から約130メートルの地点で、原爆の爆風によって欄干が元安川に転落するなどしたものの、橋自体は崩壊を免れました。そして、原爆投下後に爆心地を推定する重要な資料となりました。
現在の元安橋は1992年に被爆当時の柱を利用しつつ、竣工当時の旧元安橋を再現したデザインで架け替えられたものです。
橋からは原爆ドームが見えました。一般の車両や地元の会社員、学生が橋を通行しており、筆者にとって、日常の一部に戦争の跡が残っていることを初めて肌で感じた場所となりました。
道なりに進んでいくと、原爆の子の像があります。像の高さは9メートルで、頂上には折り鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像が立っています。像の前で写真を撮る人、カラフルな折り鶴ブースの前で立ち止まり、一つひとつをじっくり見る人などがいました。
原爆ドームと反対側の川岸に行くと、「本川小学校平和資料館」があります。本川小学校は、1928年に本川尋常高等小学校として建設されました。爆心地から410メートルにあり、複数回の補修や改修を経て、88年に平和資料館として開館しました。原爆の被害を受けた校舎の一部がそのまま保存されています。
筆者が訪問したときは開館時間外でしたが、かつての教師が被爆地から集めた展示品などを見学することができるそうです。
広島県では、世界遺産である原爆ドームなどの代表的な場所に加えて、「被爆建物」の継承にも力を入れています。被爆建物とは、原爆に耐え今なお現役で活用されている建物のことを指します。本川小学校平和資料館も被爆建物のひとつであり、ここでも戦争の跡が日常の暮らしに近い状態のまま残っていることが感じられます。
原爆投下の際に目印にしたともいわれる「相生橋」を渡ると、「平和の時計塔」があります。この時計塔は1967年に広島鯉城ライオンズクラブが建設したもので、高さは約20メートルです。毎日8時15分に鳴るチャイム音は、環境省の「残したい日本の音百選」に選定されています。
公園を中ほどまで進むと、「広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)」がありました。筆者にとっては、8月6日の平和記念式典での参列者による献花がテレビに映し出されていた場所です。慰霊碑の近くには周辺を掃除する方々がおられ、死没者の方々や訪問者のためにより良い環境を保とうとする努力を実感しました。
公園の入り口から慰霊碑にかけて続く道を進んだ先に、「平和記念資料館」があります。資料館は本館と東館に分かれており、それぞれは渡り廊下でつながっています。本館は2019年4月25日にリニューアルオープン、東館は1955年に開館した「広島平和記念館」を改築し、94年6月に「広島平和記念資料館(東館)」として開館しました。その後2014年3月からリニューアル工事が行われ、17年4月に再オープンされています。なお、東館は主役である本館に対する脇役の役割のため、本館に対して控えめなデザインで設計されているそうです。
資料館の開館は朝7時半、筆者が資料館を訪問したのは8時半頃でしたが、館内にはすでに何人もの観覧者がいました。修学旅行生らしき人、海外からとみられる方などが徐々に増えてきて、様々な人がこの資料館を訪れていることが感じられました。
資料館には、広島へ原爆が投下される前後の街の変化や被爆者の遺品、惨状を写真や資料、核の歴史などが紹介されています。公式ホームページに「被爆資料や遺品、証言などを通じて、世界の人々に核兵器の恐怖や非人道性を伝え、ノーモア・ヒロシマと訴えます」とあるように、核兵器による被害を正面から伝える施設であり、思わず目を背けてしまうような展示もありました。
この原爆資料館は、G7広島サミットの際に各国の首脳らが訪れ、約40分間視察した場所でもあります。首脳らが何を見たかは公表されていませんが、英国のスナク元首相が記者会見で語った「爆発でねじ曲がった子供の三輪車や敗れた血まみれの制服などの展示品」もありました。
白神社(しらかみしゃ)は、毛利輝元公の時(1600年頃)、広島城築城に先駆け建立されたものです。原爆が投下されたときに、社殿・大鳥居等などが焼失しました。45年以前の石造物、狛犬・常夜灯は広島原爆遺跡に指定されています。なお、現在の社殿は1989年に再建されたものです。
「袋町小学校平和資料館」も、原爆による被害を伝える場所の一つです。袋町国民学校は爆心地から約460メートルの場所にあり、原爆によって木造校舎は全壊し、全焼しました。学童疎開をせずに登校していた児童と教職員約160人が朝礼直後に被爆し、そのほとんどが亡くなりました。
原型をとどめた西校舎は避難場所や救護所として使われ、階段の壁面に被爆者の消息を書いたり家族の安否を尋ねたりする多くの伝言が残されています。2002年、老朽化した校舎の建て替えに伴い、西校舎の一部が資料館として保存されています。
初めて訪れた原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)の近くには、平日のお昼ごろにも関わらず、数十人ほどがいました。原爆ドームの前で写真を撮る人、じっと見つめる人、説明書きの看板を読み込む人などの姿が見られました。
原爆ドームは1915年に広島県物産陳列館として建設されたもので、33年に産業奨励館へと改称されました。爆心地から約160メートルの場所で被爆しましたが、ほぼ真上から爆風が襲ったため、建物の壁の一部は崩壊を免れ、これまで保存されてきました。
写真左下にある看板が示しているのは、原爆の爆心地です。看板は、1945年8月6日午前8時15分、テニアン島から出発した米軍機B-29「エノラ・ゲイ号」によって使用された原爆が、この上空約600メートルで炸裂したことを示しています。
これは病院として使用されている建物の近くにありました。筆者は、近くを通りかかったところ、看板の前で立ち止まっている人がいたため気が付くことができました。
爆心直下となった一体の地域は、約3000度から4000度の熱線や爆風、放射線を受け、ほとんどの人が瞬時にその命を奪われたそうです。
このユーカリは、爆心地から740メートル離れた広島城二の丸跡にある被爆樹木です。樹高10メートル、幹周2.75メートルを誇り、被爆樹木の中で生き残っているユーカリはこの木一本のみです。原爆の影響によって、ユーカリは写真右手前から左奥にかけて傾いて生えています。
広島城跡には、赤く変色した石垣や中国軍管区司令部跡(防空作戦室)、護国神社、大本営跡など、様々な遺跡が残されています。
広島城の天守閣からは、広島城の大きな堀や高層ビル、道行く人々や道路を走る車とともに、原爆ドームもみえました。
79年前に投下された原子爆弾により、爆心地から半径2キロ以内にあるほとんどの建物が破壊され、その年だけで当時の人口の約4割のおよそ14万人が犠牲になったと推定されます。また、放射線による影響で白血病やがんなどを発病した被爆者の方々や市民の生活、精神に及ぼした影響も考えれば、被害は今なお続いていると言えるでしょう。
筆者は今年初めて広島を訪問しました。実際に広島の街を歩き、資料館を見たり被爆体験講話を聞いたりすることでしか得られない思い、今後一生忘れがたい経験ができたと強く感じています。
その一方で、「経験者しか分からない」という趣旨のお話をされていた方のビデオも強く印象に残っています。資料館での写真ではただ立っているように見えた女性が、音声ガイドの解説を聞くと、実はぐるぐる回るように歩き回っていたというようなことが何度かありました。写真はある一コマを切り取ったものであり、文章はその時の記憶や感情を書き綴ったもの、動画もその時点での出来事や考えを残す役割しか果たさないのかもしれません。
あのとき広島で起こったことを私が完全に理解することはできないのかもしれません。ただ、きのこ雲の下で熱さや恐怖、痛さに苦しんだ方々のことを完全に理解することはできなくとも、負の歴史があったことを決して忘れず、その苦しみを繰り返さないよう学び続け、考え続けることはできるのではないでしょうか。
筆者は約1日半広島に滞在しましたが、まだまだ訪れ切れていない場所やお話を聞けなかった方がおり、再訪したいと強く思っています。
【筆者が訪問した場所、訪問したかった場所一覧】
- 元安橋
- 原爆ドーム
- 原爆の子の像
- 本川小学校平和資料館
- 平和の時計塔
- 広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)
- 平和の池
- 広島平和記念資料館本館
- G7広島サミット記念館
- 白神社
- 袋町小学校平和資料館
- 広島銀行役職員物故者慰霊碑
- 動員学徒慰霊塔
- 広島市道路元標
- 爆心地説明の碑
- 被爆樹木ユーカリ
- 中国軍管区司令部軍人・軍属・動員学徒慰霊碑
- 広島大本営跡
- 平和記念公園レストハウス
- 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
- 広島市役所旧庁舎資料展示室
- (公財)放射性影響研究所
- 比治山陸軍墓地
- 旧広島陸軍被服支廠
- 旧陸軍糧秣支廠建物(市指定重要有形文化財)
- 似島
- 陸上自衛隊第1術科学校
- 入船山記念館
- 大久野島毒ガス資料館
【参考記事】
2024年8月30日付 朝日新聞デジタル『核兵器のない世界へ 世界の若者が宣言採択 非核リーダー研修で』
2023年5月21日付 毎日新聞『英首相「広島で何が起きたのか忘れない」 原爆資料館訪問に言及』
【参考資料】
広島平和記念資料館 学習ハンドブック「ヒロシマを知ることは未来を考えること」 – 広島市公式ホームページ
平和学習プログラム | ひろしま公式観光サイト|Dive! Hiroshima 事業者向け
本川小学校平和資料館(被爆建物) | 【公式】広島の観光・旅行情報サイト Dive! Hiroshima
平和の時計塔 | 【公式】広島の観光・旅行情報サイト Dive! Hiroshima
広島平和記念資料館 | 【公式】広島の観光・旅行情報サイト Dive! Hiroshima
白神社 | 【公式】広島の観光・旅行情報サイト Dive! Hiroshima
原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)(史跡) | 【公式】広島の観光・旅行情報サイト Dive! Hiroshima
爆心地 島病院 原爆被災説明板 | 【公式】広島の観光・旅行情報サイト Dive! Hiroshima
認識番号 N07a7-01 ユーカリ(英名:Eucalyptus 学名:Eucalyptus melliodora) – 広島市公式ホームページ